赤坂ブルーシャトウ
あかさかぶるーしゃとう。1980年6月、葵マリにより赤坂2丁目に作られたSMクラブ。週に1回程度SMショーを開催し長田英吉等が出演。後の松川ナミが在籍。87年閉店。
概要
1980年(昭和55年)、葵マリにより設立。社長は、葵マリの夫である酒井氏。1987年(昭和62年)11月までの7年間存続していた模様。
別名
所在地
最初は赤坂のマンションの2階。東京都港区赤坂2-18-19赤坂シャレーII202
その後麻布十番のマンションに移った模様。
歴史
1980年(昭和55年)6月5日、葵マリにより赤坂ブルーシャトーが設立[1][注 2]。
1980年(昭和55年)6月、芸能プロABSプロモーションを設立し、その営業の1つとして赤坂ブルーシャトーを開業[2]。
1980年(昭和55年)10月、後の松川ナミが入店。源氏名はエミ[1][注 3]。
1981年(昭和56年)1月8日、赤坂ブルーシャトウの定例ショーに長田英吉を招聘。司会は田辺一鶴、モデルはエミ[1][注 4]。
1982年(昭和57年)7月1日、SMバーバレラ 創刊号に紹介記事。
1983年(昭和58年)9月、葵マリがABSプロモーション設立[1]。
1983年(昭和58年)12月1日、SMビデオの販売開始[1]。
1984年(昭和59年)、写真時代特別編集『最新風俗特集1983』で紹介。
1985年(昭和60年)、『ザ・折檻2』『ザ・折檻3』に赤坂ブルーシャトーの女王様、熱砂、西白蘭、春川かおりが出演。
1987年(昭和62年)春、姉妹店のソフトシャトウオープン。西白蘭がチーフ。
1987年(昭和62年)6月、赤坂ブルーシャトーの名士会員情報が週刊誌で漏れる[2]。
1987年(昭和62年)8月頃、この頃の営業品目は「本来のS女M女の派遣業」「(毎土曜日夜の)別室奉仕アナル突きSM調教ショー」「(春夏秋冬およびメンバーの引退記念などに麻布のSMホテル「アルファイン」で開く)超々ハード鮮血ショー」[2]。
1987年(昭和62年)8月28日、アルファインで葵マリーの引退興行。ショーの最後に北条小夜子に二代目葵マリーの称号を与える戴冠式をおこなう[2](『ブルーシャトー引退記念公演』のビデオで初代葵マリーが「2代目を北条小夜子に譲る」と語っている)。
1987年(昭和62年)11月、赤坂ブルーシャトー閉店。
1995年(平成7年)6月、葵マリーが六本木にブルーシャトーを復活[3]
1999年(平成11年)、S&Mスナイパー7月号には「奴隷契約書」「赤坂ブルーシャトウ」の広告。
主なミストレス
石原みか、立川ひとみ、中川あずさ、西白蘭、熱砂、春川かおり、藤代裕子、松川ナミ、夢リンダ、北条小夜子
エピソード
- 1980年から7年間で会員数はのべ2,800人。育ったM女は500人。ピーク時の収益は月1,800万円。(女性キャストの)最高の月給は395万円[2]。
- 麻布十番時代はブルーシャトーと奴隷契約書が一緒だった?
- ヤングシャトウ、シルバーシャトウ、ロイヤルシャトウが姉妹店?
- 1980年代長田英吉が赤坂ブルーシャトウの北条小夜子に緊縛を教える、という記述がある[4]。