木俣清史
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こひなた かずむ、1910年(明治43年)- 没年不明。明治生まれで戦前から活躍する挿絵画家の重鎮である木俣清史の別名。 裏窓、別冊SMファンなどに作品発表。小田富弥の弟子で、中一弥の弟分。
概要
戦前から活躍する挿絵画家の重鎮である木俣清史の別名。 裏窓、別冊SMファンなどに作品発表。小田富弥の弟子で、中一弥の弟分、野口昂明の兄貴分に当たる。
別名
略歴
1910年(明治43年)、愛知県に生まれる。
1928年(昭和3年)、新聞の挿絵を描き始める。
1931年(昭和6年)、雑誌の挿絵を描き始める。当時の画料は3円。
1955年(昭和30年)、『小説倶楽部』4月号の「天に沖す」の挿絵に対し「絵として魅力がない」、「気品がない」と手厳しい批判[1]。
1955年(昭和30年)、小泉純が「古さからの脱却によって、大いに前進、華麗な絵を、見せてほしい」と励ましの言葉を送っている[2]。
1973年(昭和48年)5月21日、鬼プロとサン出版の企画による箱根での慰労会[3]。出席者は団鬼六、美濃村晃、堂昌一、小日向一夢、千草忠夫、安芸蒼太郎、小妻容子、前田寿安、沖渉二、古正英生、東桂史、中島喜美、織裳雪夫、松井籟子、蘭光生、天堂寺慎、山田彬弘、曽我部泰、佐藤重臣、ネコ、マリ。
エピソード
- 「中野の編集部近くに挿絵画家の重鎮、木俣清史の邸宅があった。須磨と濡木は挿絵を依頼するためによくうかがった」[4]
- 高月大三『戦後の挿繪に現れた女の責め場』奇譚クラブ 1953年(昭和28年)5月号, 口絵で紹介されている。
- あらえびす記念館の1995年の設立に尽力。
- 「私の好きな顔は、額の広い眼が細く鼻丸く唇厚くあとの二重に豊な先づはお多福相です。絵に描く場合は反対の女性を描きます。即ち絵にした顔は実際の私の好みではありません」と述べている。
作品
- 島田一男『婦鬼系図』in 宝石1949年(昭和24年)5月1日号の挿絵。木俣清史名。
- 丸尾長顕『情怨浪花屋お北』讀物と講談 1951年(昭和26年)5月号の挿絵。木俣清史名。
- 陣出達朗『嗤う悪魔肌』小説倶楽部1954年(昭和29年)臨時増刊号に木俣清史で挿絵。
- 『猿飛佐助』(大日本雄弁会講談社、1954)、
- 陣出達朗『嗤う悪魔肌』小説倶楽部1954年(昭和29年)臨時増刊号に木俣清史で挿絵。
- 子母沢寬『御存知白浪譚 浅黃幕辨天小僧』読切倶楽部1954年(昭和29年)増刊号に小日向一夢で挿絵。
- 『宮本武蔵』(大日本雄弁会講談社、1955)
- 矢桐重八『怨霊首吊屋敷』裏窓1959年(昭和34年)7月号, p36(挿絵:小日向一夢)
- 矢桐重八『秘説千代田絵巻』裏窓1959年(昭和34年)9月号, p36(挿絵:小日向一夢)
- 黒部恭治『切腹殉教記』裏窓1963年(昭和38年)7月号。挿絵は小日向一夢。
- 耽美館編『耽美の発見』(耽美館, 1969)(発行:芳賀書店)(SM文学別巻。写真と画集。曽我部泰、小日向一夢、美濃村晃、丘水仙、山田彬弘、堂昌一などの作品)
- 根岸達夫『異常緊縛画集 一流画家による史上最大の残酷セックスの数々』(平安書房, 1970)(額田操・木俣清史・鴇田幹・由谷敏明)
- 根岸達夫・編『絵本 奇譚集』(浪速書房, 1970)(口絵:額田操、木俣清史、油谷敏明)
- 画集『縄と女』編集・譚奇会 1970年12月10日発行 三崎書房
ギャラリー
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『大毒蜘蛛責め』SMトップ 1972年(昭和47年)7月号より。
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S・Xミステリー 1972年(昭和47年)12月号より。
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別冊SMファン 1974年(昭和49年)7月号より。
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『散らされて』SMキング 1974年(昭和49年)6・7月号
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『風流三昧』SMクラブ 1980年(昭和55年)5月号より。