GSG企画
概要
桜田伝次郎が主宰したSMショーを定期開催していた団体。初期にはGSG企画の会場で長田英吉がオサダ・ゼミナールの定例会を開催していたり、また、明智伝鬼がGSG企画のSMショーから舞台デビューしたことを考えると、昭和SMのSMショーの形成に重要な役割を果たした存在であることがわかる。
歴史
1976年(昭和51年)ー1980年(昭和55年)[注 1]、桜田伝次郎は独自にSMショーを企画するGSG企画を設立。アトリエを荻窪駅の近く[注 2]とし、ここでGSG企画の最初のSMショーを開催。
1976年(昭和51年)ー1985年(昭和60年)、GSG企画が企画するSMショーが、GSG企画の西荻窪アトリエ、六本木のSAMM(賀山茂の店)、大塚のマイウェイ(本田富朗の店)、中野の中野クィーン(本田富朗の店)で開催される。桜田信、村井弦が責め師として出演し、女優は黒川真由美など。後のAV監督鬼沢修二は爆弾五郎という役名でマイウェイでのイベント「SMボンバー」に出演。[1]。
1978年(昭和53年)頃?、GSG企画のSMイベントは会員制をとっており、この会員として後の明智伝鬼が応募してくる[注 3][2][1]。
1980頃(昭和55年)?、当初桜田伝次郎は企画のみに専念しており、舞台には出演していない。GSG企画の西荻窪アトリエに出演していた桜田信が急病のため、代理として舞台に上がったのが最初のSMショーの出演。この時、桜田信をもじって桜田伝次郎という名前が誕生した[1]。
1980年(昭和55年)2月29日、3月1日、西荻窪のGSG企画室にて『SM探求シリーズ 悦虐の炎』[3]。
1980(昭和55年)7月、S&Mスナイパー7月号に「SM・飼育教室潜入ルポ」の記事。「GSGという集団が長田英吉の協力でショー」と。
1980(昭和55年)7月、月刊宝石の連載「MORE ERECT ZONE」7回目で「縛る!責める-SM飼育教室」の白黒グラビア。「ある劇団がSMの大家オサダ英吉先生を呼んでおこなった『SM飼育教室』のひとコマ」と。
1980(昭和55年)8月28日-30日、西荻窪のGSG企画室にて『SM飼育室II~SM/漂流・聖女の島』出演:桜田信[4]。この公演の模様は、SMクラブ11月号の野平達彦『SM実験劇の熱い息吹』でも紹介。沢ユミが出演とある。
観客であった明智伝鬼は、次第にショーを手伝うようになり、やがてショーが終わってから、会員の前でモデルを緊縛し、それを後の鬼沢修二が撮影するといった形が定借してくる[注 4]。
1980(昭和55年)12月、別冊SMファン12月号に『密室に展開される緊縛劇』として西荻窪アトリエでの桜田信、黒川まゆみ出演の『SM繩縛展覧会』のレポート。
1981年(昭和56年)、セルフ出版の劇画ブッチャー12月号増刊『風俗最前線1981』(末井昭編集)にGSG企画の『SM飼育室』の様子が3ページ紹介。西荻窪で開かれているSM撮影会と紹介。
1981年(昭和56年)3月、西荻窪のGSG企画室にて『SM飼育室III-3』(演出:桜田伝次郎、出演:黒川まゆみ)。料金10,000円[5]。
1981年(昭和56年)4月2-5日、西荻窪のGSG企画室にて『SM飼育室III-4』(演出:村井次郎)料金10,000円[5]。
1982年(昭和57年)7月1日、SMバーバレラ 創刊号に紹介記事。
1982年(昭和57年)8月、『SM特別月間』[注 5]。PART I(1日-10日):(昼)『白夜と愛の狩人(ラブハンター)』(夜)『桜田伝次郎、とGSG』、PART II(11日-20日):(昼)『玉井敬友とシアタースキャンダル+高杉かほり』(夜)『高橋&ザ・KAGEKI』、PART III(21日-31日):(昼)『オサダゼミナール』(夜)『黒と薔薇』[6]
引用文献
注釈
- ↑ GSG企画の正確な発足時期は調査中。玉井敬友が上京した1976年(昭和51年)以降で、GSG企画が劇画ブッチャーに紹介される1980年(昭和55年)の間であることは間違いない。 北原童夢『明智伝鬼と戦後日本のSM史』in 『変態さんがいく』(別冊宝島編集部, 2000)では「1977年(昭和52年)」設立となっている。
- ↑ 杉並区西荻南2-19-10
- ↑ 「ムーンフォトクラブ」という会員制の会員になったことがきっかけで、やがてSM撮影の会の緊縛を担当するようになる。
- ↑ 桜田伝次郎の私信では、最初はあまり緊縛にこだわりのなかった明智伝鬼だが、このショーの終了後の緊縛イベントが始まり、めきめきと緊縛の腕を上げていったようだとのこと。
- ↑ 川上譲治が公然わいせつ罪で逮捕されているので、実際に興行がおこなわれたかどうかは不明