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[[画像:AkasakaBlueChateau.jpg|250px|thumbnail|[[赤坂ブルーシャトウ]]が企画していた[[長田英吉]]のショーと思われる写真。[[ | [[画像:AkasakaBlueChateau.jpg|250px|thumbnail|[[赤坂ブルーシャトウ]]が企画していた[[長田英吉]]のショーと思われる写真。[[葵マリー]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4870420570?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4870420570 SMドキュメント葵マリーの告白手記]』([[あまとりあ社]], 1983)より。ただし写真の部屋は[[アルファ・イン]]の102号室との指摘あり<ref group="注">[[Nao Nagasawa]]、私信 to U, 2021.6.2</ref>。]] | ||
[[画像:赤坂ブルーシャトウ1.jpg|250px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1987年(昭和62年)7月号の[[ブルーシャトウ]]、[[ソフトシャトウ]]の広告。]] | [[画像:赤坂ブルーシャトウ1.jpg|250px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1987年(昭和62年)7月号の[[ブルーシャトウ]]、[[ソフトシャトウ]]の広告。]] | ||
2024年1月7日 (日) 17:09時点における版
あかさかぶるーしゃとう。1980年6月、葵マリにより赤坂2丁目に作られたSMクラブ。週に1回程度SMショーを開催し長田英吉等が出演。後の松川ナミが在籍。87年閉店。
概要
1980年(昭和55年)、葵マリにより設立。社長は、葵マリの夫である酒井氏。1987年(昭和62年)11月までの7年間存続していた模様。
別名
所在地
最初は赤坂のマンションの2階。東京都港区赤坂2-18-19赤坂シャレーII202
その後麻布十番のマンションに移った模様。
歴史
1980年(昭和55年)6月5日、葵マリにより赤坂ブルーシャトーが設立[1][注 2]。
1980年(昭和55年)6月、芸能プロABSプロモーションを設立し、その営業の1つとして赤坂ブルーシャトーを開業[2]。
1980年(昭和55年)10月、後の松川ナミが入店。源氏名はエミ[1][注 3]。
1981年(昭和56年)1月8日、赤坂ブルーシャトウの定例ショーに長田英吉を招聘。司会は田辺一鶴、モデルはエミ[1][注 4]。
1982年(昭和57年)7月1日、SMバーバレラ 創刊号に紹介記事。
1983年(昭和58年)9月、葵マリがABSプロモーション設立[1]。
1983年(昭和58年)12月1日、SMビデオの販売開始[1]。
1984年(昭和59年)、写真時代特別編集『最新風俗特集1983』で紹介。
1985年(昭和60年)、『ザ・折檻2』『ザ・折檻3』に赤坂ブルーシャトーの女王様、熱砂、西白蘭、春川かおりが出演。
1987年(昭和62年)春、姉妹店のソフトシャトウオープン。西白蘭がチーフ。
1987年(昭和62年)8月頃、この頃の営業品目は「本来のS女M女の派遣業」「(毎土曜日夜の)別室奉仕アナル突きSM調教ショー」「(春夏秋冬およびメンバーの引退記念などに麻布のSMホテル「アルファイン」で開く)超々ハード鮮血ショー」[2]。
1987年(昭和62年)頃、『ブルーシャトー引退記念公演』のビデオで初代葵マリーが「2代目を北条小夜子に譲る」と語っている。
1987年(昭和62年)11月、赤坂ブルーシャトー閉店。
1995年(平成7年)6月、葵マリーが六本木にブルーシャトーを復活[3]
1999年(平成11年)、S&Mスナイパー7月号には「奴隷契約書」「赤坂ブルーシャトウ」の広告。
主なミストレス
石原みか、立川ひとみ、中川あずさ、西白蘭、熱砂、春川かおり、藤代裕子、松川ナミ、夢リンダ、北条小夜子
エピソード
- 1980年から7年間で会員数はのべ2,800人。育ったM女は500人[2]。
- 麻布十番時代はブルーシャトーと奴隷契約書が一緒だった?
- ヤングシャトウ、シルバーシャトウ、ロイヤルシャトウが姉妹店?
- 1980年代長田英吉が赤坂ブルーシャトウの北条小夜子に緊縛を教える、という記述がある[4]。