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==概要==
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明治時代の[[小芝居]]の劇場。[[新富座]]が一時[[柳盛座]]と呼ばれていた時期もあるので注意が必要。'''板東和好'''や'''中村梅雀'''が人気を博した。
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1906年(明治39年)11月、この頃の座主は'''福嶋佐吉'''とある。
1906年(明治39年)11月、この頃の座主は'''福嶋佐吉'''とある。


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1906年(明治39年)頃、[[伊藤晴雨]]が当時懇意になった鳥越警察の巡査に連れられ、[[柳盛座]]の'''[[巻野憲二]]'''一座の公演を観劇。楽屋に連れて行ってもらい、その後も出入りを続ける<ref name="zigaziden">[[福富太郎]]・編[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104156019?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4104156019 『'''伊藤晴雨 自画自伝'''』](新潮社, 1996)</ref>。
1906年(明治39年)頃、[[伊藤晴雨]]が当時懇意になった鳥越警察の巡査に連れられ、[[柳盛座]]の'''[[巻野憲二]]'''一座の公演を観劇。楽屋に連れて行ってもらい、その後も出入りを続ける<ref name="zigaziden">[[福富太郎]]・編[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104156019?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4104156019 『'''伊藤晴雨 自画自伝'''』](新潮社, 1996)</ref>。

2014年8月21日 (木) 07:50時点における版

柳盛座で1906年(明治39年)11月1日に行われた盛隆會夜興行『蘆分小舟』の辻番付伊藤晴雨の手によるものかもしれない。

概要

明治時代の小芝居の劇場。新富座が一時柳盛座と呼ばれていた時期もあるので注意が必要。板東和好中村梅雀が人気を博した。

別名

向柳原柳盛座、下谷柳盛座

所在地

歴史

七代目市川團十郎が江戸柳盛座の新春興業で「狐忠信」「葛の葉」を演じたところ、連日札止めの大盛況

1889年(明治22年)、歌舞伎座でオープンしたこの頃の公認劇場は、大劇場が歌舞伎座明治座、深野座(新富座)、市村座春木座鳥越座で小劇場は浅草常盤座、下谷柳盛座、中州真砂座、浅草宮戸座、本所寿座、神田三崎座、赤坂演技座、駒形浅草座、四谷瓢座、根岸栄座、下谷開盛座、深川深川座だった。

1892年(明治25年)頃、板東和好中村梅雀が人気。

1906年(明治39年)、3代目中村翫右衛門が初舞台。

1906年(明治39年)11月、この頃の座主は福嶋佐吉とある。

1906年(明治39年)11月1日、盛隆會夜興行『蘆分小舟[注 1]巻野憲二が出演。この時の辻番付伊藤晴雨の手によるものかもしれない。

1906年(明治39年)頃、伊藤晴雨が当時懇意になった鳥越警察の巡査に連れられ、柳盛座巻野憲二一座の公演を観劇。楽屋に連れて行ってもらい、その後も出入りを続ける[1]

1906年(明治39年)頃、巻野憲二一座の役者の阿部信夫開盛座に移る。伊藤晴雨開盛座へも出入りするようになる[1]

中央劇場として連鎖劇を。

エピソード

  • 初代中村梅雀(後の中村翫右衛門)が座頭。
  • 板東和好の市川團十郎の模倣が評判を呼び、板東和好は『二銭團洲』と呼ばれてマニアの間でも人気。「團洲」は團十郎の雅号。
  • 1897年頃、板東和好は板東又三郎と名を変えて格の高い宮戸座に上がる。最後は歌舞伎座に。
  • 巻野憲二一座は『松隆会』という名。女形に細野勝次、花車形に阿部信夫巻野憲二は東北出身で観世流能役者の中村霞楓と仲が良かった[1]

引用文献

注釈

  1. Charles Dickensの原作が池雪蕾の訳で都新聞に連載されていたもの。

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