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1888年(明治21年)、[[伊藤晴雨]]は7才(数え)で母親から[[中将姫の雪責め]]の物語を聞かされる<ref name="korekusyon">[[伊藤晴雨]]『'''[[責のこれくしょん]]'''』(私家版, 1952.1.15)</ref>。 | 1888年(明治21年)、[[伊藤晴雨]]は7才(数え)で母親から[[中将姫の雪責め]]の物語を聞かされる<ref name="korekusyon">[[伊藤晴雨]]『'''[[責のこれくしょん]]'''』(私家版, 1952.1.15)</ref>。 | ||
1919年(大正8年)12月、[[伊藤晴雨]]は[[佐原キセ]]をモデルに自宅の庭で[[雪責め]]の写真。カメラマンは有賀<ref name="kawaguchi">[[川口博]][http://www.amazon.co.jp/gp/product/4106024233?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4106024233 『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』](新潮社, 1996)</ref><ref name="semenohanashi">[[伊藤晴雨]]『''[[ | 1919年(大正8年)12月、[[伊藤晴雨]]は[[佐原キセ]]をモデルに自宅の庭で[[雪責め]]の写真。カメラマンは有賀<ref name="kawaguchi">[[川口博]][http://www.amazon.co.jp/gp/product/4106024233?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4106024233 『責め絵の女 伊藤晴雨写真帖』](新潮社, 1996)</ref><ref name="semenohanashi">[[伊藤晴雨]]『'''[[責の話]]'''』([[粹古堂]], 1952)</ref><ref group="注">この作品の一部は後に[[斎藤昌三]]の『』で発表される。</ref><ref group="注">『責めの研究』in 『[[世界の刑罰性犯変態の研究]]』(犯罪科學研究同好會, 1930)では、1922年(大正11年)1月が最初のような表記がある。</ref>。 | ||
1920年(大正8年)1月7日、[[佐原キセ]]をモデルに夜明けに全裸で撮影<ref name="semenohanashi"></ref><ref group="注">「門外不出であった」「昭和二十年四月十三日画室と其の運命を共にした」とある。</ref>。 | 1920年(大正8年)1月7日、[[佐原キセ]]をモデルに夜明けに全裸で撮影<ref name="semenohanashi"></ref><ref group="注">「門外不出であった」「昭和二十年四月十三日画室と其の運命を共にした」とある。</ref>。 | ||
1923年(大正12年)2月10日、[[伊藤晴雨]]は[[佐原キセ]]をモデルにカメラマン鈴木雷水と下高井戸の「吉田園」という温泉旅館の庭でまず長襦袢姿で撮影<ref name="hanzai"></ref>。次に、坂本牙城<ref group="注">当時、[[伊藤晴雨]]宅に居候していたようだ。</ref>の借りていた農家付近で全裸の[[雪責め]]の撮影<ref name="kawaguchi"></ref>。 | 1923年(大正12年)2月10日、[[伊藤晴雨]]は[[佐原キセ]]をモデルにカメラマン鈴木雷水と下高井戸の「吉田園」という温泉旅館の庭でまず長襦袢姿で撮影<ref name="hanzai">[[伊藤晴雨]]『責めの研究』in 『[[世界の刑罰性犯変態の研究]]』(犯罪科學研究同好會, 1930)</ref>。次に、坂本牙城<ref group="注">当時、[[伊藤晴雨]]宅に居候していたようだ。</ref>の借りていた農家付近で全裸の[[雪責め]]の撮影<ref name="kawaguchi"></ref>。 | ||
1953年(昭和28年)6月4日、[[伊藤晴雨]]は「'''責めの劇団'''」の第1回公演を[[市川鈴本]]でおこなう<ref group="注">[[濡木痴夢男]]はこの公演を観ていると「奇譚クラブの絵師たち」と書いている。それによると演目は[[鈴木泉三郎]]脚本の『'''[[火あぶり]]'''』(これは晴雨がモデルで[[肉体の門|空気座]]が東横デパートの劇場で上演したある。ただし、[[伊藤晴雨]]の記録では「三〇余名の会員を前にして『'''[[雪責め]]の女'''』を上演」とある。</ref><ref name="sonokoro5">[[伊藤晴雨]]『'''其の頃を語る(五) 責め場の舞台装置法'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195310/02/165.html p169]</ref>。 | 1953年(昭和28年)6月4日、[[伊藤晴雨]]は「'''責めの劇団'''」の第1回公演を[[市川鈴本]]でおこなう<ref group="注">[[濡木痴夢男]]はこの公演を観ていると「奇譚クラブの絵師たち」と書いている。それによると演目は[[鈴木泉三郎]]脚本の『'''[[火あぶり]]'''』(これは晴雨がモデルで[[肉体の門|空気座]]が東横デパートの劇場で上演したある。ただし、[[伊藤晴雨]]の記録では「三〇余名の会員を前にして『'''[[雪責め]]の女'''』を上演」とある。</ref><ref name="sonokoro5">[[伊藤晴雨]]『'''其の頃を語る(五) 責め場の舞台装置法'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195310/02/165.html p169]</ref>。 |
2014年4月23日 (水) 08:45時点における版
概要
主な出来事
1888年(明治21年)、伊藤晴雨は7才(数え)で母親から中将姫の雪責めの物語を聞かされる[1]。
1919年(大正8年)12月、伊藤晴雨は佐原キセをモデルに自宅の庭で雪責めの写真。カメラマンは有賀[2][3][注 1][注 2]。
1920年(大正8年)1月7日、佐原キセをモデルに夜明けに全裸で撮影[3][注 3]。
1923年(大正12年)2月10日、伊藤晴雨は佐原キセをモデルにカメラマン鈴木雷水と下高井戸の「吉田園」という温泉旅館の庭でまず長襦袢姿で撮影[4]。次に、坂本牙城[注 4]の借りていた農家付近で全裸の雪責めの撮影[2]。
1953年(昭和28年)6月4日、伊藤晴雨は「責めの劇団」の第1回公演を市川鈴本でおこなう[注 5][5]。
2012年(平成24年)、杉浦則夫が長野で雪責めの写真撮影。