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1920年(大正9年)、加山道之助と趣味誌『おいら』を創刊<ref name="wiki"></ref>。
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1940年(昭和15年)5月13日、「湯河原に行き、翌日、県下七つの県立公園選定を記念して、ハイキングをかねた一斉踏査」の記録が「新富町多与里」に。
1940年(昭和15年)5月13日、「湯河原に行き、翌日、県下七つの県立公園選定を記念して、ハイキングをかねた一斉踏査」の記録が「新富町多与里」に。
1951年(昭和36年)、『書物展望』終刊<ref name="wiki"></ref>。


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2013年4月29日 (月) 12:00時点における版

さいとう しょうぞう、1887年(明治20年)3月19日-1961年(昭和36年)11月26日

概要

書誌学者。猥褻本の研究、編訳なども手がける。「書物展望社」を主催。奇抜な本の装幀家としても有名。

別名

english、斎藤政三、未鳴、桃哉、少雨叟、少雨荘。

略歴

1887年(明治20年)3月19日、神奈川県高座郡座間町に商人の子として生まれる[1]

1920年(大正9年)、加山道之助と趣味誌『おいら』を創刊[1]

1926年(大正15年)頃、梅原北明と親しくなり『變態資料』のうち二冊を執筆[1]

1931年(昭和6年)、書物展望社を興し『書物展望』を創刊。蔵書票の蒐集、下手装本の刊行などを行う[1]

1940年(昭和15年)5月13日、「湯河原に行き、翌日、県下七つの県立公園選定を記念して、ハイキングをかねた一斉踏査」の記録が「新富町多与里」に。

1951年(昭和36年)、『書物展望』終刊[1]

1954年(昭和39年)10月、斎藤昌三武野藤介が神奈川県秦野市鶴巻に風俗博物館のような『黄庵』を開設[注 1]

エピソード

  • 神奈川県秦野市鶴巻の『黄庵』は斎藤昌三の自宅だったようだ[注 1]
  • 神奈川県秦野市鶴巻1393 「光鶴園」入口に文学碑「虫時雨大山能はなほつゝく」(1959年1月)
  • 神奈川県座間市入谷1-3500 鈴鹿明神境内に文学碑「赤まんまかまくら古道此処に絶え」(1961年)

代表作

書籍

雑誌

引用文献

注釈

  1. 1.0 1.1 風俗科斈1954年(昭和29年)2月号, グラビア

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梅原北明