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2011年4月25日 (月) 07:43時点における版
だん おにろく、1931年(昭和6年)4月16日 -
概要
団鬼六のエッセイに『SMに市民権を与えたのは私です』と題された作品があるが、まさに「SM」というマニアの世界と一般社会をつなぐ窓口として活躍した重鎮である。1957年(昭和32年)、文藝春秋社主催の第11回オール新人杯に黒岩松次郎の名前で応募した『親子丼』が次席受賞、小説家としてのスタートを切る。翌年には花巻京太郎の名で奇譚クラブの懸賞小説に応募し、入選。1958年(昭和33年)には単行本『宿命の壁』『大穴』の出版、1960年(昭和35年)には『大穴』の松竹からの映画化、と幸先の良いスタートを切るが、新橋でのバー経営に失敗、1962年(昭和37年)には神奈川県三浦半島に移り英語教師となる。この頃、奇譚クラブに花巻京太郎の名で寄稿した『花と蛇』がマニアからの支持を得、1963年(昭和38年)から団鬼六と名を変えて連載を本格化する。須磨利之、吉田稔、辻村隆、千草忠夫との交流を深め、『花と蛇』の人気がますます高まる中、再度上京し洋画吹き替え会社『テレビ放送』社に入社する。おりしもピンク映画が爆発的に人気を集め出した頃で、『テレビ放送』社で知り合った山邊信夫と共に、1965年(昭和40年)に『花と蛇』の映画化を実現する。山邊信夫が本格的にピンク映画制作に乗り出すと共に、ヤマベプロの脚本家として多くのピンク映画やピンク実演脚本を書いた。ヤマベプロの所属であった谷ナオミやたこ八郎と早くから交流があり、谷ナオミは辻村隆を通じて奇譚クラブでも紹介されている。1968年(昭和43年)に辻村隆を東映に紹介した頃から、関西テレビなどのマスコミに露出し、一般社会へのSMの紹介者として地位を確立していく。1969年(昭和44年)にはヤマベプロから離れ、自ら鬼プロを設立し、ピンク映画やピンク実演の制作を始める。しかしながらピンク映画そのものの全盛期は過ぎており、やがて鬼プロは写真集やSMキングといった出版にシフトしていく。以後、SM雑誌の大ブームとなり、膨大な数のSM小説作品を発表、SM作家としての不動の地位を築き上げる。1974年(昭和49年)には、日活が谷ナオミを主演として『花と蛇』を映画化し、ロマンポルでのSMブームが起こる。日活は、SM内容の作品には全て団鬼六の名前をタイトルに入れため、団鬼六=SMの図式がますます強固なものとなった。将棋はプロ級の腕をもち、将棋に関する著作も多数ある。1989年(平成元年)、断筆宣言後、しばらくは将棋に関するエッセイ等を執筆するにとどまったが、1995年(平成7年)に執筆活動を再開し、『真剣師・小池重明』『外道の群れ』『往きて還らず』などの長編小説を発表している。明るく優しい人柄から交友関係も幅広い。団鬼六自身はそれほどコアなSMマニアではないという意見が多い。実妹はジャズ歌手の黒岩三代子。
別名
Oniroku Dan、黒岩幸彦(本名)、花巻京太郎、淡路周五、黒岩松次郎。
略歴
関西時代
1931年(昭和6年)4月16日、滋賀県彦根市四番町土橋の映画館「金城館」経営者の子としてに生まれる[1]。父・黒岩信行はかつて映画の脚本家をめざしていた。母・元映画女優の香取幸枝[注 1]で再婚。幸枝はかつて直木三十五に師事。戸籍上の生まれは9月1日[2]。
1943年(昭和18年)、「金城館」は人手にわたり、一家は大阪東淀川区神崎川に移る。関西学院の中学部に入学[1]。
1947年(昭和22年)、関西学院高等部の1年に編入。
1950年(昭和25年)、関西学院大学・法学部入学。「奇譚クラブ」に傾倒する[1][3]。
小説家デビュー時代
1954年(昭和29年)、関西学院大学卒業と同時に上京[注 2]、東京タイムズ社の映画雑誌『スターストーリー』に翻訳要員として入社(編集室は江古田の熊谷家[注 3]の離れ)。同僚に塩澤実信[注 4][4]。
1955年(昭和30年)、『スターストーリー』は退社し日劇ミュージックホールの照明係等、職を転々[3]。
1956年(昭和31年)、文藝春秋「オール讀物」主催のオール新人杯に応募した『浪速に死す』が佳作。
1957年(昭和32年)12月、文藝春秋「オール讀物」主催の第11回オール新人杯に黒岩松次郎の名前で応募した『親子丼』が次席受賞となる[注 5]。
1958年(昭和33年)、奇譚クラブの懸賞小説に花巻京太郎の名で『お町の最後』を応募。7月号に『創作 お町の最後』として掲載。
1958年(昭和33年)、五月書房[注 6]から黒岩松次郎の名前で『宿命の壁』[注 7]『大穴』を出版。
1959年(昭和34年)5月、新橋にバー『34』を開く[1][4]。
1960年(昭和35年)、2月[注 8]、風俗研究社の風俗クラブ創刊号に花巻京太郎『私刑される女』発表。裏窓12月号に花巻京太郎『お町の危難』。
1960年(昭和35年)4月、『大穴』 が松竹から映画化[注 9]。
1961年(昭和36年)、奇譚クラブ1月号, p134に『柔肌地獄』、2月号に『美しきが故に』。100万人のよる11月号に『美女が絶叫する変態観劇パーティー』裏窓3月号に『絵物語 Y座文芸部員』、12月号に『ある女の場合 浅草えれじい』。いずれも花巻京太郎名。
1961年(昭和36年)頃、東中野から幡ヶ谷三丁目に移り、両親を関西から呼び寄せる[1]。
1962年(昭和37年)、この頃、須磨利之と知り合う[3][注 10]。
1962年(昭和37年)、『花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で奇譚クラブ8月9月合併号から連載。バー『34』を閉じる。
英語教師時代
1962年(昭和37年)、神奈川県三浦半島の三崎に移る[3]。吉田稔、辻村隆、千草忠夫などが三崎を訪問している。
1963年(昭和38年)、『花と蛇』を団鬼六の名で奇譚クラブ7月号から再開。板倉三枝子と結婚[3]。
1963年(昭和38年)11月、黒岩松次郎『銀座タコ部屋物語』in 100万人のよる
1964年(昭和39年)、『花と蛇』第一部が完結(第15回)。臨時増刊号が出る。11月号から第2部。
シナリオライター時代
1965年(昭和40年)春、テレビ洋画制作会社[注 11]に入社するため再度上京。幡ヶ谷の近くに単身アパートを借りる[1]。
1965年(昭和40年)年、山邊信夫と知り合い、最初のピンク映画台本を執筆[3][注 12]。
1965年(昭和40年)年、山邊信夫と共に『花と蛇』を制作[注 13]。
1966年(昭和41年)、テレビ洋画制作会が倒産し、家族と共に神奈川県、真鶴に転居。ピンク映画の脚本依頼が殺到[3]。
1966年(昭和41年)頃、山邊信夫の紹介で谷ナオミと出会う[3]。賀山茂に谷ナオミを紹介する[5]。
1968年(昭和43年)、ヤマベプロ作品『続・花と蛇 赤い拷問』[注 14]。
1968年(昭和43年)、この頃既にピンク実演の脚本を書き出している[6]。
1968年(昭和43年)、団の紹介で辻村隆が石井輝男監督の『徳川女刑罰史』(東映)で緊縛指導をしている。
1968年(昭和43年)、奇譚クラブ12月号、および翌1月号の2回に分けて『私本 伊藤晴雨物語』。
鬼プロ時代
1969年(昭和44年)5月、渋谷区桜ヶ丘にAGアパートを借り、鬼プロを設立。たこ八郎が住み込み。
1969年(昭和44年)5月、鬼プロ制作『女極道色欲一代』が公開[注 15]。
1969年(昭和44年)、奇譚クラブ10月号「編集部だより」に「かねて三浦半島の一角に建築しておられた邸宅がこのほど完成」とある。
1969年(昭和44年)9月24日、関西テレビ「ナイトショー」の「サドの世界」に立川談志と共に出演。前田武彦、芳村真理[7]。
1969年(昭和44年)10月、芳賀書店から『緊縛写真』シリーズ。緊縛は賀山茂。[注 16]。
1969年(昭和44年)11月、鬼プロ第1回作品『女が鞭で嬲る時』公開[注 17]。
1970年(昭和45年)7月、週刊ポスト7月31日号に「今週の人」として取り上げられ、「花と蛇」を紹介。
1970年(昭和45年)10月、東京三世社よりSMセレクト創刊の相談を受ける。
1971年(昭和46年)1月18日、青島幸夫の「おひるのワイドショー」の「性でもうけるX氏」に出演[8]。
1971年(昭和46年)1月、ミリオン制作の『肉地獄』を監督。
1971年(昭和46年)1月、「週刊大衆」に『陰花植物群』を連載開始。
1971年(昭和46年)、AGアパート時代に、たこ八郎の紹介で杉浦則夫が鬼プロに参加。たこ八郎のピンク実演が始まる[9]。
1971年(昭和46年)、芳賀書店から『緊縛写真大全』。写真:篠山紀信、構成・イラストレーション:宇野亜喜良。緊縛は浦戸宏。
1971年(昭和46年)頃、鬼プロ4作目の映画を監督本木荘二郎で制作[1]。
1971年(昭和46年)、渋谷区道玄坂の新築の三信マンションに引っ越し。
1971年(昭和46年)7月、鈴木則文監督『温泉みみず芸者』(東映)に出演[注 18]。
1971年(昭和46年)、目黒区目黒三丁目(大鳥神社近く。)に部屋数7つ300坪の豪邸を借り、タコ劇団をこちらに移す。真鶴から家族を呼ぶ[注 19]。
1971年(昭和46年)、『続・花と蛇』が完結。
1972年(昭和47年)、SMキング創刊。週間大衆に『隠花植物群』を連載開始。『奇譚伊藤晴雨伝』(三崎書房)を発刊。
1972年(昭和47年)11月、『緋ぢりめん博徒』(東映、1972.11.21)(監督:石井輝男、原案:団鬼六、出演:中村英子 土田早苗 藤ひろ子 池玲子 山城新伍 菅原文太 司京子 小池朝雄)公開
1973年(昭和48年)、鬼プロの社員数が8人になる[3][注 20]。
SM作家時代
1974年(昭和49年)、にっかつ『花と蛇』が公開[注 21]。SMキング廃刊し鬼プロも解散[3]。
1974年(昭和49年)、アブハンターに『花と蛇・完結編』連載開始。1975年までの12回。
1975年(昭和50年)8月、日劇ミュージックホール「ニンフェットは密がおすき」の構成[注 22][10]。
1976年(昭和51年)2月、日劇ミュージックホールに出演した谷ナオミの「春の夜の女絵巻」を演出[3][注 23]。
1976年(昭和51年)、東京三世社が団鬼六賞を創設[注 24]。
1977年(昭和52年)、世田谷区奥沢に転居[3]。大岡山に仕事場を借りる。
1979年(昭和54年)、谷ナオミが『縄と肌』で引退。
1980年(昭和55年)、横浜の桜木町で売りに出ていたメリヤス工場を買い取り転居。SM道具などを陳列[1]。
1980年(昭和55年)、シングルレコード『あきかぜ』をリリース。サンケイスポーツに『鬼六あぶらんだむ』を連載開始。
1983年(昭和58年)、最初の妻、三枝子と離婚。鬼プロ再解散[3]。
1984年(昭和59年)、宮本安紀子と再婚[注 25]。
1984年(昭和59年)9月、角川書店から『花と蛇』の初の文庫本化。全8巻。
1986年(昭和61年)、桜木町の自宅前の旅館を9,000万円で買い取り三階建ての邸宅、翌年完成。屋上にはビアガーテン[1]。
1987年(昭和62年)、『伊藤晴雨物語]』(河出文庫)を発刊。
断筆時代
1989年(平成元年)、SM小説断筆宣言。将棋に関するエッセイに絞る。
1989年(平成元年)、日本アマチュア将棋連盟発行の機関紙『将棋ジャーナル』を買い取る。
1994年(平成6年)、『将棋ジャーナル』廃刊。多額の負債を抱える。
復活から現在まで
1995年(平成7年)1月、長池士の運営する、SMサークル『アムス』の分科会の一つとして『鬼六の会』が発足[注 26]。
1995年(平成7年)、『真剣師・小池重明』(イーストプレス)で執筆活動を再開。
1995年(平成7年)、東京・浜田山の借家に移る。
1996年(平成8年)、伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』(朝日ソノラマ)。
1997年(平成9年)、脳梗塞で入院。
1999年(平成11年)10月、かつての鬼プロ復活を意識した「花紅舎」が設立される[注 27]。
1999年(平成11年)、CD『団鬼六 東海林太郎を唄う』をリリース。
2002年(平成14年)、伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』の映画化作品「およう」が松竹系で公開。監督は関本郁夫、出演は竹中直人ら。
2002年(平成14年)、『紅姉妹』(シネマジック)を監督。原作は「肉体の賭け」。
2004年(平成16年)、東映ビデオ『花と蛇』(監督:石井隆、緊縛指導:有末剛、主演:杉本彩) が公開。
2006年(平成18年)、人工透析拒否宣言[注 28]。
2009年(平成21年)7月、特攻隊員と少女の恋愛小説『往きて還らず』(新潮社)
2010年(平成22年)、食道がんであることを公表[11]。
2010年(平成22年)、無双舎、季刊「悦」が「団鬼六賞」創設[注 29]。第1回受賞は花房観音。
エピソード
- 高校時代は剣道部に所属。その時の師範から試刀術を学んだことが、後の刀剣コレクションに影響する。
- 横浜市出身の力士で1992年(平成4年)東前頭4枚目にまで上がった鬼雷砲を幕下時代から応援しており、1991年(平成3年)の入幕時の記念祝賀会を主催している。
- 千草忠夫は熱烈な『花と蛇』の支持者で、団が三崎で英語教師をしていた頃、三崎まで訪問。その後、夏休み毎に三崎を訪問し、1週間ばかり団の家に泊まっていた[12]。
- 映画製作で熱海の「起雲閣」をよく使った[13]。
- 立川談志の立川一門に属し、立川鬼六という名をもつ。
代表作
花と蛇
花と蛇のページにまとめている。
自伝
- 団鬼六『鬼六談義』(芳賀書店, 1970)
- 団鬼六『鬼六あぶらんだむ』(笠倉出版社, 1981)[注 30]
- 団鬼六『SMに市民権を与えたのは私です』(勁文社, 1995)
- 団鬼六『蛇のみちは―団鬼六自伝』(幻冬舎, 1997)
- 団鬼六『生きかた下手』(2004, 文藝春秋)
- 団鬼六『快楽なくして何が人生』(2006, 幻冬舎)
- 団鬼六『悦楽王』(2010, 講談社)
- 団鬼六『死んでたまるか 自伝エッセイ』(2011, 講談社)
注目すべき作品
- 団鬼六『隠花植物群』(現代出版社, 1972)
- 団鬼六『奇譚伊藤晴雨伝』(三崎書房, 1972)
- 団鬼六『伊藤晴雨物語』(河出文庫, 1987)
- 団鬼六『外道の群れ―責め絵師伊藤晴雨をめぐる官能絵巻』(1996, 朝日ソノラマ)
- 団鬼六『異形の宴―責め絵師伊藤晴雨奇伝』(2000, 朝日ソノラマ)
鬼六談義
鬼六談義のページに移行。
団研究本
映画
- 『大穴』(松竹, 1960)(監督:内川清一郎、脚本:菊島隆三、原作:黒岩松次郎、音楽:佐藤勝、撮影:太田喜晴、美術:水谷浩、出演:杉浦直樹 芳村真理 花菱アチャコ 清川虹子 山茶花究 上田吉二郎 左卜全)
- その他、ヤマベプロ、鬼プロ、花と蛇、谷ナオミなどに映画関係の情報。
奇譚クラブの映画シナリオ
団鬼六の映画シナリオに移動。
芝居
- 花と蛇の舞台化は花と蛇のページ参照。
- 北区つかこうへい劇団『往きて還らず』(原作:団鬼六、脚本:石川朝子、演出:逸見輝羊、出演:木下智恵、吉田学、小川智之、杉山圭一、北田理道) 2010年(平成22年)12月16日ー19日 於 北区滝野川会館大ホール[注 31]
引用文献
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 団鬼六『蛇のみちは―団鬼六自伝』(幻冬舎, 1997)
- ↑ 佐藤齊「作家団鬼六の誕生」in 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)
- ↑ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 3.13 団鬼六オフィシャルサイトより(2010)
- ↑ 4.0 4.1 塩澤実信『団鬼六 二十代・放浪の日々』幻冬舎『花は紅―団鬼六の世界』(幻冬舎, 1999)
- ↑ 5.0 5.1 『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。
- ↑ 『鬼六談義 酒場の話』奇譚クラブ1968年(昭和43年)6月号
- ↑ 奇譚クラブ1969年(昭和44年)12月号「サロン楽我記」
- ↑ 奇譚クラブ1971年(1971年)4月号, p234
- ↑ 杉浦則夫からUへの私信(2010年4月12日)。
- ↑ 『The Nichigeki Music Hall』(東宝, 1982)
- ↑ 『残日録・春-我、ガンになりたり』「小説新潮」2010年(平成22年)5月号。
- ↑ 西村京太郎・団鬼六『昭和ヒトケタ世代の現役宣言』幻冬舎『花は紅―団鬼六の世界』pp42-pp52 (幻冬舎, 1999)
- ↑ 堀江珠喜『団鬼六の耽美世界」in 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)
注釈
- ↑ 1927年(昭和2年)、離婚を機に、直木三十五に2年師事。直木はその頃映画に手を出しており、1928年(昭和3年)の『熱球は飛ぶ』(服部真砂雄監督)で主演女優。栗島すみ子と同期。その後、直木が岡田嘉子一座に世話。岡田座解散後、坂東寿三郎劇団の幹部女優となる。坂東劇団解散後、松竹の脚本部にいた信行と結婚。
- ↑ 在学時に既に東京で日劇ミュージックホールの照明係等をアルバイトしていたため、一年間留学し、足りない単位を取るために関西に試験を受けに帰ってきたという記述もある。
- ↑ ロマンス社創業者の熊谷寛。1951年にロマンス社を倒産させ、古巣の東京タイムズ社に戻っていた。塩澤が居候していた。
- ↑ 後に週間大衆の編集長となり『隠花植物群』の執筆を団に依頼。
- ↑ 父親をモデルとした小説。火野葦平、梅崎晴生、浜本浩の講評が出る。
- ↑ 『蛇のみちは』では「東西芸術社」という変名で出てくる。
- ↑ 『浪速に死す』『親子丼』を含む5編が収録。
- ↑ 奥付が「印刷昭和34年、発行35年」となっており正確な発行年が不明。
- ↑ 黒岩松次郎原作。内川清一郎監督。出演は杉浦直樹 芳村真理 花菱アチャコ 清川虹子 山茶花究。
- ↑ 1959年頃という記述もあるので確認が必要。
- ↑ 社名は『テレビ放送』(山邊信夫『団さんのシナリオライター時代』による)、『S企画』(『蛇のみちは』)等いろいろな説。 「ヒッチコック劇場」「バークレー牧場」「ウルトラ二等兵」「恐妻天国」を担当(岸信太郎『団さんの苦しんだ時代』) 。
- ↑ 「山邊さんの知り合いの、エロダクションの社長Tが脚本家を捜しており、山邊さんが団さんに依頼し、できた脚本が山邊さんからTに渡り、このTが映画化して六邦映画で契約成立。」とある。その後、Tのために毎月脚本を書き、新高恵子、内田高子、松井康子が団の脚本で芝居、とある。
- ↑ ヤマベプロ制作、東京企画配給。主演は紫千鶴。監督は小林悟、助監督は若松孝二。団自身が緊縛をおこなった(山邊私信 to U)
- ↑ 松原次郎監督。出演は谷ナオミ、たこ八郎など。賀山茂が緊縛を手伝っている。
- ↑ 「中川プロ」制作との記述もあり。配給はミリオンフィルム。監督:伊世亜夫。出演:里見孝二 水咲陽子 林美樹 長岡丈二 江島祐子 冬木京三 九重京司 三重街竜 園あけみ。
- ↑ 『『緊縛写真4』は1970年(昭和45年)。『緊縛写真・別巻』1−5が1970年(昭和45年)に。別巻の写真は戸塚栄作。
- ↑ 原作シナリオ名は「鬼女」
- ↑ 他にも『温泉スッポン芸者』(鈴木則文監督、東映1972)、『桃子夫人の冒険』(小原宏裕監督、にっかつ1979、『ザッツ宴会 テイメント』(泉谷しげる・石井聰互監督、1984)『文学賞殺人事件 大いなる助走』(鈴木則文監督、アジャックス 1989)などに出演。
- ↑ 杉浦則夫の記憶では、真鶴から再度三浦三崎に戻っていた。夫人の実家が三崎の材木商であった。
- ↑ たこ八郎、杉浦則夫、田代幸三、中原研一、山根麗子など。
- ↑ 主演は谷ナオミ。監督は小沼勝。緊縛指導は浦戸宏。
- ↑ 藤田敏雄、平田稲雄と。田中真理、瀬間千恵がゲスト。
- ↑ 『The Nichigeki Music Hall』(東宝, 1982)の全記録には団の名前はない。里吉しげみ、伊藤潤演出、松原美紀、コメディ天国出演。
- ↑ 第一回鬼六賞の受賞者は姫野カオルコ。
- ↑ 1945年(昭和20)年1月12日東京生まれ。
- ↑ 元々は独立した団体であったが、1995年からアムスが管理運営(団の昔のHPより)。
- ↑ 代表取締役:坂本利建、取締役:中原研一、黒岩幸彦、黒岩安紀子、大石実。東京都千代田区外神田2丁目2番19号。2003年3月には代表取締役:阪本利建、取締役:黒岩幸彦、黒岩安紀子。東京都渋谷区広尾1丁目9番20号 TM広尾6F。同7月には新宿区早稲田町83 SOビル B1。
- ↑ ただし、翌年には医師の説得で受け入れる。
- ↑ 選考委員は団鬼六、重松清、高橋源一郎、睦月影郎。
- ↑ 1986年に勁文社から文庫化
- ↑ 企画後につかこうへいはがんで死去。残った劇団員が公演を実現した。
つながり
吉田稔 須磨利之 辻村隆 賀山茂 山邊信夫 谷ナオミ 杉浦則夫 たこ八郎 有末剛 田代幸三 本木荘二郎 中原研一 長池士 山根麗子 リッキー梶原