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1977年(昭和52年) 、[[世田介一]]が始めていた[[SUN&MOON]]の5号(11月)より編集に参加<ref group="注">編集に関しては素人の[[世田介一]]を助けるために、出版社が編集プロの浦戸の参加を乞うた。(Master "K"私信)</ref>。
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1978年(昭和53年)、[[絃映社]]からマントピア増刊2月号として[[サンアンドムーン]]を発刊。編集人となる。誌名はやがて[[えすとえむ]]に変更。
1978年(昭和53年)、[[絃映社]]から[[マントピア]]増刊2月号として[[サンアンドムーン]]を発刊。編集人となる。誌名はやがて[[えすとえむ]]に変更。


1978年(昭和53年)1月、「黒薔薇夫人」で西村と初めて映画を作る<ref group="注">制作の結城良煕と脚本の桂千穂と西村で会い相談。その頃出版社でバイトしていた。田島を推薦した。</ref>。
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2010年10月30日 (土) 18:34時点における版

浦戸宏 (1933- )

うらど ひろし、1933年(昭和8年)11月18日-

活動内容

緊縛師。編集者。

別名

Hiroshi Urado、読みは本来は「うらど」だが「うらと」と呼ばれることが多い[1]。増井(本名)[2]

略歴

1933年(昭和8年)11月19日、高知県生まれ[1]

1950年代、法政大学社会学部卒業。卒業後は教科書、児童書の編集者[1]

1961年(昭和36年)8月、「裏窓」(久保書店)の見習い編集者として友人の身代わりで面接に行き、それ以後四年ほど須磨利之の下で雑誌編集を教えられた[3][注 1]

1961年(昭和36年)、久保書店入社後しばらくして、須磨花巻京太郎(=団)を紹介される[1]

1962年(昭和37年)9-10月、裏窓の編集長に濡木痴夢男が着任[4][注 2]

1965年(昭和40年)頃、久保書店を退社し個人出版社『白竜社』を設立する。明治維新関係の本を出版[1][注 3]

1966年(昭和41年)11月、練馬区江古田のアパートを『白竜社』の事務所とする[4]

1968年(昭和43年)1月、初めてプライベートで緊縛をおこなう[4]

1968年(昭和43年)頃、フリーの編集者となる。南池袋に事務所をかまえる[4]芳賀書店のSM耽美文学シリーズ[注 4]の編集を担当する[注 5][1]

1969年(昭和44年)、団鬼六鬼プロを発足し、外部メンバーとしてしばしば参加。

1970年(昭和45年)頃 富士五湖湖畔の団鬼六の別荘に10名ぐらいで遊びに行く。谷ナオミをモデルにネズミ小僧の撮影を目黒の団鬼六邸でやろうと盛り上がる。その後、実際鬼六邸で撮影[3]

1970年(昭和45年)7月に三浦三崎で宮下順子を縛る[3][注 6]

1971年(昭和46年)、団鬼六の『緊縛写真大全』(芳賀書店)の緊縛を担当。写真:篠山紀信、構成・イラストレーション:宇野亜喜良。

1974年(昭和49年)5月 山邊信夫から頼まれ[4][注 7]、にっかつ「花と蛇」で緊縛指導。主演は谷ナオミ[3][注 8]。以後、1988年まで46本余りのロマンポルノ作品の緊縛指導。

1974年(昭和49年) 、谷ナオミのファンの集いに参加し、2度縛る。付き人に東てる美[3]

1974年(昭和49年) 、「花と蛇」に続き「生贄夫人」の制作[3][注 9]

1977年(昭和52年) 、「貴婦人縛り壺」の緊縛指導[3][注 10]

1977年(昭和52年) 、世田介一が始めていたSUN&MOONの5号(11月)より編集に参加[注 11]

1978年(昭和53年)、絃映社からマントピア増刊2月号としてサンアンドムーンを発刊。編集人となる。誌名はやがてえすとえむに変更。

1978年(昭和53年)1月、「黒薔薇夫人」で西村と初めて映画を作る[注 12]

1979年(昭和54年)、サンアンドムーンえすとえむに誌名変更して創刊。28号まで続く。

1982年(昭和57年)、日活ビデオフィルムズから「SM本番生撮りビデオ~浦戸宏の世界」シリーズ5本[5]

エピソード

  • 大学時代は映画三昧の生活で、卒業に8年かかる[1]
  • 元来編集者であったが、団鬼六よりが賀山茂の代理として緊縛を覚えてくれと頼まれ、緊縛を始める。団鬼六は写真集での賀山茂の緊縛指導料を浮かしたかった[1]
  • 須磨利之から直接緊縛術を習ったことはないが、緊縛は須磨利之をめざし、手本とした[1]
  • SMキングの初期の頃、緊縛を手伝う[4]
  • 鬼プロのメンバーというわけではないが、ゲストメンバーのような感じだった。鬼プロから給料をもらったことはない[4]
  • 「にっかつ以前に鬼プロのからんだピンク映画で1,2度緊縛指導をしたが、どの映画だったか記憶にない。ミリオンがからんでいたような気もする」[4]
  • 「緊縛指導」ではなく「ロープマン」という呼び方が好き。
  • にっかつで緊縛を担当した作品は「花と蛇」「生贄夫人」「団鬼六 貴婦人縛り壺」「団鬼六 黒薔薇夫人」「団鬼六 縄地獄」「団鬼六 薔薇の肉体」「団鬼六 縄化粧」「団鬼六 縄と肌」「団鬼六 花嫁人形」「堕靡泥の星 美少女狩り」「団鬼六 少女縛り絵図」「団鬼六 白衣縄地獄」「団鬼六 縄災夫人」「セックスハンター 性狩人」「団鬼六 薔薇地獄 」「団鬼六 OL縄地獄」「団鬼六 女秘書縄調教」「団鬼六 女秘書縄地獄」「団鬼六 女美容師縄飼育」「団鬼六 奴隷契約書」「団鬼六 黒髪縄夫人」「奴隷契約書 鞭とハイヒール」「団鬼六 蒼いおんな 」「団鬼六 少女木馬責め 」「縄と乳房」「団鬼六 蛇の穴 」「団鬼六 美女縄地獄[注 13]」「団鬼六 美女縄化粧[注 13] 」「縄姉妹 奇妙な果実」「団鬼六監修 SM大全集」「団鬼六 修道女縄地獄 [注 13]」「団鬼六縄責め」「団鬼六 緊縛卍責め 」「花と蛇 地獄篇」「団鬼六 美教師地獄責め 」「花と蛇 飼育篇」「ザ・マニア 快感生体実験」「団鬼六 蛇と鞭」「花と蛇 白衣縄奴隷」「蘭光生 肉飼育」「団鬼六 生贄姉妹」「妖艶 肉縛り」「団鬼六 人妻なぶり」「赤い縄 果てるまで」「花と蛇 究極縄調教」「団鬼六 妖艶能面地獄」[1]
  • 緊縛指導料金は、2-3週間の拘束で、初期で5万円、後期で25万円であった[1]

代表作

雑誌

  • 浦戸宏『回想のにっかつ銀幕物語』SMスピリッツ1989年〜1991年に断続連載。
  • 浦戸宏『渡部好美特写記』SUN&MOON1977年12月号
  • 浦戸宏『SM映画作りのことなど』SUN&MOON1977年12月号

書籍

映画での緊縛指導

  • 花と蛇』(1974.06.22)(製作:日活、監督:小沼勝、脚本:田中陽造、原作:団鬼六、緊縛:浦戸宏、出演:谷ナオミ 坂本長利 石津康彦 藤ひろ子 あべ聖 八代康二 高橋明)
  • 生贄夫人』(1974.10.26)(製作:日活、監督:小沼勝、脚本:田中陽造、緊縛:浦戸宏、出演:谷ナオミ 東てる美 坂本長利 影山英俊 中平哲仟 高山千草 谷文太 庄司三郎 小見山玉樹)
  • 団鬼六「黒い鬼火」より 貴婦人縛り壺』(1977.12.10)(製作:日活、監督:小沼勝、原作:団鬼六、緊縛:浦戸宏、出演:谷ナオミ 高木均 渡辺とく子 花上晃 志賀圭二郎 田島はるか)

その他多数

ビデオ

引用文献

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 Master "K"からの"私信
  2. 『女優谷ナオミ:伝説のSM女王』西日本スポーツに1999年(平成11年)2月2日から10月ぐらいまで連載
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 浦戸宏『回想のにっかつ銀幕物語』SMスピリッツ1989年〜1991年
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 4.6 4.7 私信 to A
  5. マンボウ資料館

マンボウ資料館

注釈

  1. 当時、マンハントの編集に3名、裏窓の編集にキミという女性ひとりが携わっていた。須磨は少女雑誌『抒情文芸』の発刊準備に追われていた。(Master "K"私信)当時の裏窓編集長は須磨利之で編集部員は滝本喜美と浦戸(私信to A)。
  2. 私信 to Aであるが1961年の記憶違いではないかと思われる。
  3. 「坂本龍馬 海援隊始末記」などを出版しており、これは後に久保書店から再版されている。
  4. 1968年(昭和43年)から1970年(昭和45年)に25冊出版されている。団鬼六飯田豊一・藤見郁などの名が連なる。ここにリストがある。
  5. 最初は詩集の企画を持ち込んだところ、裏窓にいた経験に興味を持たれSM関連を担当。(Master "K"私信)
  6. これはSMキング1973年(昭和48年)年4月増刊号「緊縛の宴」に「漂泊の女」として出ている。(マンボウ私信)
  7. 山邊信夫とは1970年前後に何度か顔を合わせていた。
  8. にっかつ撮影所で台本を渡され一読した感想を率直に言えば「なんじゃこれは!」様式美のかけらも読み取ることができなかった。スタッフは30名を超えていた。「なめられたくないから、お互いに頑張ろうよ」と谷ナオミ谷ナオミは日活には2年前にデビュー。当時の日活にはSMポルに対してある種の偏見。地下室の監禁されている谷ナオミの縛り方に対して、監督と決定的な意見の違い。監督はぐるぐる巻きしてくれと言う。浦戸は1本で縛らないとだめだと主張。「こんな下らない縛りをするために来たんじゃないぞ!」と言ってしまい場をしらけさす。その時谷ナオミが「あんた!言いすぎよ。プロならプロらしく監督の言うとおりになりなさいよ!」とぞっとする気迫で怒る。
  9. 脚本は前回と同じ田中。8月下旬に初めて田中を紹介され、小沼と3人で縛りのことを相談。したがって、この映画では脚本段階から参加していた。東の浣腸シーンは気合いを入れて撮影。谷ナオミの排泄シーンはバナナで作る。リアルすぎて映倫がカット
  10. 久しぶりの「谷・小沼」コンビ。それまでに谷ナオミは6,7本のSMに出演していたが、それらの縛りは60半ばのフリーカメラマンA氏が担当。撮影中に勝手にスチールを撮影することで谷ナオミとの間にトラブル。急遽撮影寸前に浦戸に依頼が来る。原稿をもらうのも寸前。谷ナオミもスターになり、谷ナオミのスケジュールにあわせて撮影が進行。田島はるかを知る。
  11. 編集に関しては素人の世田介一を助けるために、出版社が編集プロの浦戸の参加を乞うた。(Master "K"私信)
  12. 制作の結城良煕と脚本の桂千穂と西村で会い相談。その頃出版社でバイトしていた。田島を推薦した。
  13. 13.0 13.1 13.2 これらは記憶違いで、D・ハルマが緊縛を担当した可能性がある(私信 to U from A)。

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