「鬼六談義」の版間の差分
提供:SMpedia
10行目: | 10行目: | ||
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)7月号『鬼六談義 '''SとMは花ざかり'''』 | *[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)7月号『鬼六談義 '''SとMは花ざかり'''』 | ||
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)11月号『鬼六談義 '''三文マニア文士'''』 | *[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)11月号『鬼六談義 '''三文マニア文士'''』 | ||
**3年間つきあった愛人のM子が結婚するため、別かれることになった。 | |||
==1967年[[奇譚クラブ]]連載== | ==1967年[[奇譚クラブ]]連載== | ||
*[[奇譚クラブ]]1967年(昭和42年)2月号『鬼六談義 '''三文羞恥論'''』<ref group="注" name="haga">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J9ABNS?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J9ABNS 団鬼六『鬼六談義』(芳賀書店, 1970)]として再録。</ref> | *[[奇譚クラブ]]1967年(昭和42年)2月号『鬼六談義 '''三文羞恥論'''』<ref group="注" name="haga">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J9ABNS?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J9ABNS 団鬼六『鬼六談義』(芳賀書店, 1970)]として再録。</ref> |
2010年6月1日 (火) 22:49時点における版
団鬼六が1964年(昭和39年)から1974年(昭和49年)まで、奇譚クラブと、続いてSMキングに不定期に書いていた随筆。当時のSM事情を知る貴重な情報源
1964年奇譚クラブ連載
1965年奇譚クラブ連載
1966年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1966年(昭和41年)2月号『鬼六談義 日本三文映画』
- 奇譚クラブ1966年(昭和41年)7月号『鬼六談義 SとMは花ざかり』
- 奇譚クラブ1966年(昭和41年)11月号『鬼六談義 三文マニア文士』
- 3年間つきあった愛人のM子が結婚するため、別かれることになった。
1967年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)2月号『鬼六談義 三文羞恥論』[注 1]
- 「新宿の安宿の一室で明日の朝までに手渡さねばならぬピンク映画のシナリオを書き飛ばしていた」
- テレビタレントのK君に紹介された女性読者の話。
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)3月号『鬼六談義 夜の寒鳥』[注 1]
- 大晦日にヤクザのアパートで夫婦のSMショーを見せられたという、その後もしばしば出てくるモチーフ。
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)6月号『鬼六談義 三文SM人生論』[注 1]
- S派、M派の性格分類。
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)7月号『鬼六談義 化物の話』[注 1]
- 「十日間で(ピンク映画の)脚本3本というどえらい仕事を強制された」
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)8月号『鬼六談義 カメラ嫌い』[注 1]
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)9月号『鬼六談義 好色の戒め』
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)10月号『鬼六談義 瓢箪の話』[注 1]
- 「現在、外国テレビ映画翻訳の仕事をやっている」とある。
- 奇譚クラブ1967年(昭和42年)12月号『鬼六談義 好きな人達』[注 1]
- 熱海での「肉地獄」のロケに奇譚クラブの読者A氏、B氏が招かれた話。辰巳のり子の縛りシーン。撮影隊はT旅館に滞在。
1968年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)3月号『鬼六談義 バラバラの話』[注 1]
- バラバラ殺人事件の参考人となった話。
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)4月号『鬼六談義 男と女の話』
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)5月号『鬼六談義 狐の話』
- ピンク俳優の権利を守る「独立映画俳優協会」が発足。谷直美や林美樹も来る。協会のためのシナリオを書いた(同号の『残酷・性の贄』か?)
- 最近はピンク映画のシナリオにももっともらしいストーリーが要求されるようになってきた。
- これまで50本ぐらいのシナリオを書いた。以前は月1本だが今は月3本。
- 武智鉄二の映画は下手な説法めいたものが画面に顔をのぞかせるので好きになれない。ただ、『黒い雪』裁判でピンク映画も芸術だとごまかしやすくなったので恩恵は受けた。
- 最近は乳頭も映画で見せることが出来る。
- 武田有生の『多情な乳液』の脚本を書いた(ヤマベプロ作品。辰巳典子主演。)
- 新高恵子、可能かず子、城山路子などの演技力のある女優はやめてしまった。
- 新高恵子の義理で、寺山の芝居を末広亭に見に行った。陳腐な三文芝居に芸術の匂いをつけて人をたぶららかすもの。アングラマニアさえたぶらかすアングラ劇団、と手厳しい。
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)6月号『鬼六談義 酒場の話』[注 1]
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)8月号『鬼六談義 残酷な話』
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)10月号『鬼六談義 どさ回りの話』[注 1]
- 奇譚クラブ1968年(昭和43年)11月号『鬼六談義 秋の風』
1969年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1969年(昭和44年)3月号『鬼六談義 一皮むけば』
- 奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号『鬼六談義 或る女優の話』[注 1]
- 奇譚クラブ1969年(昭和44年)7月号『鬼六談義 蓮華草の話』[注 1]
- 「海の見えるこの土地に移り住んでもう5年」とある。
- 「石井輝雄(ママ)が・・・助監督連が結束し」とボイコット事件のことが書いてある。
- 奇譚クラブ1969年(昭和44年)9月号『鬼六談義 奇妙な性の話』
1970年奇譚クラブ連載
- 奇譚クラブ1970年(昭和45年)3月号『鬼六談義 人妻の話』[注 1]
- 「今年(おそらく1969年)は・・・ピンクプロを作ってみたものの」とある。
- 「テレビにまで出てしまった」とある。「談志に応援を頼んで出演」とある。
- 一緒に出演した昭和女子大学の白石先生。
1971年奇譚クラブ連載
1973年SMキング連載
- SMキング1973年(昭和48年)1月号『鬼六談義 生首』[注 2]
- 生首マニアKさんの話。
- SMキング1973年(昭和48年)2月号『鬼六談義 珍小説から珍出版』[注 3]
- SMキング1973年(昭和48年)3月号『鬼六談義 羞恥責の』[注 3]
- SMキング1973年(昭和48年)4月号『鬼六談義 浣腸の話』[注 3]
- SMキング1973年(昭和48年)5月号『鬼六談義 SM雑誌考』[注 2]
- SMの基礎知識を普及する雑誌としてSMキングを始めてみた。
- SMキング1973年(昭和48年)6月号『鬼六談義 マニア好みの女』[注 3]
- SMキング1973年(昭和48年)8月号『鬼六談義 苦闘の一年』[注 2]
- 酒場経営を3年間やったとある。
- SMキング1973年(昭和48年)9月号『鬼六談義 悦虐趣味のたたり』
- SMキング1973年(昭和48年)10月号『鬼六談義 快楽の原点』[注 3]
- SMキング1973年(昭和48年)11月号『鬼六談義 秋風の季節』[注 2]
- SMキング8月号、9月号が発禁処分になったとある。
1974年SMキング連載
- SMキング1974年(昭和4年9)1月号『鬼六談義』