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2020年8月14日 (金) 12:18時点における最新版

赤坂ブルーシャトウが企画していた長田英吉のショーと思われる写真。葵マリーSMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)より。ただし写真の部屋はアルファ・インの102号室との指摘あり[注 1]
S&Mスナイパー1987年(昭和62年)7月号のブルーシャトウソフトシャトウの広告。

あかさかぶるーしゃとう。1980年6月、葵マリにより赤坂2丁目に作られたSMクラブ。週に1回程度SMショーを開催し長田英吉等が出演。後の松川ナミが在籍。87年閉店。

概要

1980年(昭和55年)、葵マリにより設立。社長は、葵マリの夫である酒井氏。1987年(昭和62年)11月までの7年間存続していた模様。

別名

ブルーシャトウ赤坂ブルーシャトーブルーシャトー

所在地

最初は赤坂のマンションの2階。東京都港区赤坂2-18-19赤坂シャレーII202

その後麻布十番のマンションに移った模様。

歴史

1980年(昭和55年)6月5日、葵マリにより赤坂ブルーシャトーが設立[1][注 2]

1980年(昭和55年)6月、芸能プロABSプロモーションを設立し、その営業の1つとして赤坂ブルーシャトーを開業[2]

1980年(昭和55年)10月、後の松川ナミが入店。源氏名はエミ[1][注 3]

1981年(昭和56年)1月8日、赤坂ブルーシャトウの定例ショーに長田英吉を招聘。司会は田辺一鶴、モデルはエミ[1][注 4]

1982年(昭和57年)7月1日、SMバーバレラ 創刊号に紹介記事。

1983年(昭和58年)9月、葵マリABSプロモーション設立[1]

1983年(昭和58年)12月1日、SMビデオの販売開始[1]

1984年(昭和59年)、写真時代特別編集『最新風俗特集1983』で紹介。

1985年(昭和60年)、『ザ・折檻2』『ザ・折檻3』に赤坂ブルーシャトーの女王様、熱砂、西白蘭春川かおりが出演。

1987年(昭和62年)春、姉妹店のソフトシャトウオープン。西白蘭がチーフ。

1987年(昭和62年)6月、赤坂ブルーシャトーの名士会員情報が週刊誌で漏れる[2]

1987年(昭和62年)8月頃、この頃の営業品目は「本来のS女M女の派遣業」「(毎土曜日夜の)別室奉仕アナル突きSM調教ショー」「(春夏秋冬およびメンバーの引退記念などに麻布のSMホテル「アルファイン」で開く)超々ハード鮮血ショー」[2]

1987年(昭和62年)8月28日、アルファイン葵マリーの引退興行。ショーの最後に北条小夜子二代目葵マリーの称号を与える戴冠式をおこなう[2](『ブルーシャトー引退記念公演』のビデオで初代葵マリーが「2代目北条小夜子に譲る」と語っている)。

1987年(昭和62年)11月、赤坂ブルーシャトー閉店。

1995年(平成7年)6月、葵マリーが六本木にブルーシャトーを復活[3]

1999年(平成11年)、S&Mスナイパー7月号には「奴隷契約書」「赤坂ブルーシャトウ」の広告。

主なミストレス

石原みか立川ひとみ中川あずさ西白蘭熱砂春川かおり藤代裕子松川ナミ夢リンダ北条小夜子

エピソード

ギャラリー

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 葵マリーSMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 名士がズラリ会員だった超高級クラブ"SMの女王"がついに引退!週刊読売1987年(昭和62年)8月30日号
  3. 週刊新潮1995年(平成7年)7月20号
  4. 長田スティーブのHP

注釈

  1. Nao Nagasawa、私信 to U, 2021.6.2
  2. 毎月第一、第三金曜日と、第二、第四木曜日の19:00-21:00にショー付きパーティー。
  3. ナンバーワンだったが、いつの間にか銀座や吉祥寺のSMクラブに出演。1981年の始めにぐる赤坂ブルーシャトーはやめる。
  4. 2月5日の節分ショーでも長田英吉が出演。

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