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'''さはら きせ''', 1893-5年(明治26-8年)頃? | '''さはら きせ''', 1893-5年(明治26-8年)頃?。元祖SMモデル。1919年(大正8年)に[[伊藤晴雨]]の2番目の妻。『'''臨月の夫人の逆さ吊り写真'''』は大正15年に「[[變態資料]]」に流出し話題。 | ||
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[[伊藤晴雨]]の2番目の妻。[[伊藤晴雨]]の仕事に理解を示し、雪責め写真や[[逆さ吊り]]写真などのモデルをつとめた。特に、臨月近い状態で[[逆さ吊り]]となった『'''臨月の夫人の[[逆さ吊り]]写真'''』撮影の成功とその流布は、変態としての[[伊藤晴雨]]の名を世に広げることとなった。'''元祖SM写真モデル'''ともいえる存在である。 | [[伊藤晴雨]]の2番目の妻。[[伊藤晴雨]]の仕事に理解を示し、雪責め写真や[[逆さ吊り]]写真などのモデルをつとめた。特に、臨月近い状態で[[逆さ吊り]]となった『'''臨月の夫人の[[逆さ吊り]]写真'''』撮影の成功とその流布は、変態としての[[伊藤晴雨]]の名を世に広げることとなった。'''元祖SM写真モデル'''ともいえる存在である。 |
2014年7月1日 (火) 08:18時点における最新版
さはら きせ, 1893-5年(明治26-8年)頃?。元祖SMモデル。1919年(大正8年)に伊藤晴雨の2番目の妻。『臨月の夫人の逆さ吊り写真』は大正15年に「變態資料」に流出し話題。
概要
伊藤晴雨の2番目の妻。伊藤晴雨の仕事に理解を示し、雪責め写真や逆さ吊り写真などのモデルをつとめた。特に、臨月近い状態で逆さ吊りとなった『臨月の夫人の逆さ吊り写真』撮影の成功とその流布は、変態としての伊藤晴雨の名を世に広げることとなった。元祖SM写真モデルともいえる存在である。
別名
佐原帰世子
略歴
1893-5年(明治26-8年)頃、生まれる[1]。
1919年(大正8年)12月、佐原キセをモデルに自宅の庭で雪責めの写真。カメラマンは有賀[1][注 2][注 3]。
1920年(大正9年)秋、伊藤晴雨が佐原キセをモデルに最初の吊りの試み[2]。
1921年(大正10年)6月、伊藤晴雨が妊娠していた佐原キセをモデルに『臨月の夫人の逆さ吊り写真』を撮影[2]。
1922年(大正11年)1月、佐原キセをモデルに庭で雪責めの写真を撮影。この次が翌年の下高井戸での撮影のような書き方をしている。[3]
1923年(大正12年)2月10日、佐原キセをモデルにカメラマン鈴木雷水と下高井戸の「吉田園」という温泉旅館の庭でまず長襦袢姿で撮影[3]。次に、坂本牙城[注 4]の借りていた農家付近で全裸の雪責めの撮影[1]。
1924年(大正13年)、サンデー毎日6月1日号に佐原キセとの責め写真が紹介され、変態のレッテルを貼られる[1]。
1925年(大正14年)夏、澤田正二郎一座の北海道巡業に参加。佐原キセと離婚[4]、伊藤赳[5]。
1926年(大正15年)、梅原北明の變態資料12月25日号に佐原キセをモデルにした『臨月の夫人の逆さ吊り写真』が無断掲載[注 5]。月岡芳年の「臨月の女性の逆さ吊り[注 6]」と共に。
トピック
- 伊藤晴雨と結婚した頃、伊藤晴雨が看板を描いていた開盛座の女役者をしていたという記述[1]と、「谷中の宮崎幾之助の紹介で、一日八十銭の日給で通っていた」日雇いのモデル、という記述[2]がある。
- 伊藤晴雨は、東京美術学校に通って着衣のモデルをしながら、延壽太夫に清元を習っていた、当時17才の佐原キセの妹も写真のモデルにしている。後に清元櫻比呂となっている女性であ。この妹の吊り写真は世に広まり、井川洗崖の吊るし責めの絵も、この写真を模写したものだろうと伊藤晴雨書いているる[2]。
- 『発禁本「美人乱舞」より 責める!』 (日活, 1977)((製作:結城良煕、監督:田中登、緊縛指導:謝楽斉、脚本:いどあきお、出演:宮下順子)は、佐原キセ(映画ではタミ)との別れから始まる。
- 1998年(平成10年)4月、下北沢「劇」小劇場で上演された玉井敬友主宰のシアタースキャンダル公演、『奇伝・伊藤晴雨』では小川美那子が佐原キセ役。