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2004年に公開された[[石井隆]] | 2004年に公開された[[石井隆]] 監督、[[杉本彩]] 主演の「[[花と蛇]]」(東映ビデオ配給)では、「緊縛指導」として[[有末剛]] 氏が参加している。この種のSM映画の成否が映画中での緊縛のQualityに左右されることは言うまでもなく、特に一般人のみならずマニアをも満足させるSM映画と作るためには、有末氏のような第一級の緊縛師の参加は不可避であろう。 | ||
「緊縛指導」を中心にキーワードとして、年代を遡りながら最近の映画をサーチしてみると、多数の緊縛師が緊縛指導として関わった映画が見つかってくる。 | 「緊縛指導」を中心にキーワードとして、年代を遡りながら最近の映画をサーチしてみると、多数の緊縛師が緊縛指導として関わった映画が見つかってくる。 | ||
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以下、複数回に分けて、歴史の古い順に[[映画における緊縛指導|SM映画の緊縛指導に関わったと思われる人達]]を紹介していきたい。 | 以下、複数回に分けて、歴史の古い順に[[映画における緊縛指導|SM映画の緊縛指導に関わったと思われる人達]]を紹介していきたい。 | ||
第1回目は [[名和弓雄]] 氏 に登場していただく。 | 第1回目は [[名和弓雄]] 氏 に登場していただく。 | ||
国内最初のSM映画がどの作品にあたるのか? はっきりとしたコンセンサスはないが、複数のマニアの方が1964年の[[小森白]]監督『[[日本拷問刑罰史]]』([[新東宝]])がそれに相応しいものではないかと指摘している。 | |||
国内最初のSM映画がどの作品にあたるのか? はっきりとしたコンセンサスはないが、複数のマニアの方が1964年の[[小森白]] | |||
64年がどのような時代かをざっと記してみよう、1960年に「[[風俗奇譚]]」が創刊。62年には[[濡木痴夢男]]氏が[[裏窓]]の二代目編集長。同時期に「悪書追放運動」が始まる。同じく62年に、日本最初の[[ピンク映画]]とされる[[小林悟]]監督の『'''肉体の市場'''』が発表。63年に連載3回でストップしていた「[[花と蛇]]」が[[奇譚クラブ]]で再開(花巻京太郎から[[団鬼六]]に作者名変更)。65年に「[[サスペンスマガジン]]」創刊。同年、11PMが放送開始。また、[[オサダ・ゼミナール]]が発足、といった感じである。もちろん[[SMという言葉の誕生|SMという言葉]]はまだ一般社会の人々には知られていない時代である。 | 64年がどのような時代かをざっと記してみよう、1960年に「[[風俗奇譚]]」が創刊。62年には[[濡木痴夢男]]氏が[[裏窓]]の二代目編集長。同時期に「悪書追放運動」が始まる。同じく62年に、日本最初の[[ピンク映画]]とされる[[小林悟]]監督の『'''肉体の市場'''』が発表。63年に連載3回でストップしていた「[[花と蛇]]」が[[奇譚クラブ]]で再開(花巻京太郎から[[団鬼六]]に作者名変更)。65年に「[[サスペンスマガジン]]」創刊。同年、11PMが放送開始。また、[[オサダ・ゼミナール]]が発足、といった感じである。もちろん[[SMという言葉の誕生|SMという言葉]]はまだ一般社会の人々には知られていない時代である。 | ||
さて、「[[新東宝]] | さて、「[[新東宝]]」といえば、昭和生まれの世代は[[ピンク映画]]を連想する。しかし日本映画の歴史を辿ると、「[[新東宝]]」は、まず東宝株式会社の組合を脱退した俳優、監督が中心に1947年に設立した「新東宝映画製作所」として誕生している(後に新東宝株式会社)。嵐寛寿郎、丹波哲郎などを抱える、お堅い映画会社として生まれている。後に話の出てくる[[石井輝男]]監督も新東宝出身であることに注目したい。 | ||
経営は順調とはいかなかったらしく、1955年に後の[[大蔵映画]](上記のわが国最初の[[ピンク映画]]『肉体の市場』に深く関連)の創立者である[[大蔵貢]]が事実上の買収で社長となる。大蔵は「安く、早く、面白く」で改革を試み、多くの新人を生み出したが、やがてそのワンマン体制から離脱者を生み出し、とうとう60年に大蔵は[[新東宝]]から追放され、その後、61年に新東宝株式会社は倒産してしまっている。 | |||
昭和後半生まれが「ピンク映画の新東宝」として認識している「[[新東宝]]」は、正確にはこの「新東宝株式会社」ではない。61年に倒産したあと、旧会社の有志が作った「新東宝興行株式会社」(後に、「新東宝映画株式会社」)がそれである。似たような名前が続々と出てくるので、便宜上61年までの[[新東宝]]を「旧『[[新東宝]]』」、61年以降を「新『[[新東宝]]』」としておく。 | |||
[[小森白]](きよし)監督(1920-)は、旧「[[新東宝]]」の設立当時から活躍し、倒産後も新「[[新東宝]]」へと制作の場を移して活躍した名監督である。そしてこの『[[日本拷問刑罰史]]』は新「[[新東宝]]」からの配給映画となる。余談になるが、[[大蔵貢]]が[[新東宝]]を追い出されから設立した「大蔵映画株式会社」の第1作が[[小森白]]監督の「太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962)」である。[[小森白]]監督と[[石井輝男]]監督は[[大蔵貢]]が育てたとされるので、ある意味大蔵は日本SM映画の父とも言える。 | |||
話が少し[[小森白]]監督にずれてしまったので、本題の[[名和弓雄]]氏に戻ろう。『[[日本拷問刑罰史]]』は原作が[[名和弓雄]]となっている。[[名和弓雄]]は1912年(明治45年)生まれ、2008年(平成18年)永眠。時代考証家、武道家。「正木流万力鎖術第10代宗家。拷問具のコレクションは現在明治大学刑事博物館に収蔵。」などとの記述ある。これを読むと、名和は学者肌の歴史研究家で、[[小森白]]監督に乞われて、拷問の時代考証をしたのだな、と思ってしまう。実は、それがそうでもないのである。 | |||
「[[裏窓]]」1965年(昭和40年)1月号に「『日本拷問刑罰史』撮影裏話」と題した[[名和弓雄]]氏の寄稿が載っている。それを読むと、「[[裏窓]]」に連載(1962年2月号から4月号まで『日本拷問史』を連載。5月号には『西洋拷問史』。6月号からは『日本刑罰史』を12月まで連載。)していたものを『日本刑罰史』をまとめて出版(1962年の雄山閣『拷問刑罰史』か?)したところ、[[新東宝]]の並木社長が「これはいける」、と飛びついてきた。私も、それまでの時代物映画のいいかげんな考証をなんとかしなければと思っていたところであるし、しかも監督の[[小森白]]は時代物映画を撮るのが初めてらしいので、きちんとした考証の映画を撮ってくれるかもしれない」という内容のいきさつから始まり、映画撮影の様子が詳しく書かれている。 | |||
制作への関わりは、想像していたような「時代考証に関して専門的なコメントを出す」といった消極的なものではない。名和にとっては、自分が作りたかった「拷問シーンだけで構成された映画」が夢かなって作れる、ということで、かなりの気の入れようである。ノリノリなのである。ロケ地の選択だけで、監督と1週間あちこちを見回ったとある。女優達の緊縛や拷問に対する困惑ぶりも面白くおかしく書いている。某女優は「お乳が映るのは困ります」と、磔シーンで足を折り曲げ必死に乳首を隠そうとしてなかなか撮影が進まなかった、と回想している。全裸で撮影するシーンは、映画女優は使えないので、ストリッパーを調達してきたと書いてある。その他にも、縄がいたくないように、巧みにカバーをしたことや、命がけの海中での逆さ磔の撮影シーンなど、苦労話がたくさん披露されている。 | 制作への関わりは、想像していたような「時代考証に関して専門的なコメントを出す」といった消極的なものではない。名和にとっては、自分が作りたかった「拷問シーンだけで構成された映画」が夢かなって作れる、ということで、かなりの気の入れようである。ノリノリなのである。ロケ地の選択だけで、監督と1週間あちこちを見回ったとある。女優達の緊縛や拷問に対する困惑ぶりも面白くおかしく書いている。某女優は「お乳が映るのは困ります」と、磔シーンで足を折り曲げ必死に乳首を隠そうとしてなかなか撮影が進まなかった、と回想している。全裸で撮影するシーンは、映画女優は使えないので、ストリッパーを調達してきたと書いてある。その他にも、縄がいたくないように、巧みにカバーをしたことや、命がけの海中での逆さ磔の撮影シーンなど、苦労話がたくさん披露されている。 | ||
『[[名和弓雄]]』は、いわゆる[[伊藤晴雨]]や[[須磨利之]]といった初期の緊縛師として知られているわけではないが、上記の『日本拷問刑罰史』の制作過程を見る限り、日本最初のSM映画において『日本最初の緊縛指導』者と結論してもよいのではなかろうか。 | |||
残念ながら私はこの『[[日本拷問刑罰史]]』を見たことはない。ただ、後にも出てくる[[石井輝男]]監督の『徳川女刑罰史(1968)』『'''徳川いれずみ師 責め地獄'''(1969)』の冒頭には、数々の江戸拷問刑のシーンが使われている。小森作品のスチール写真と非常に似た印象をもつ映像なので、『[[日本拷問刑罰史]]』をかなり意識しながらこの冒頭シーンを撮影したのではないかと想像している。 | |||
(画像は『[[日本拷問刑罰史]]』より森美沙の磔シーン) | |||
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2024年8月16日 (金) 21:04時点における最新版
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2004年に公開された石井隆 監督、杉本彩 主演の「花と蛇」(東映ビデオ配給)では、「緊縛指導」として有末剛 氏が参加している。この種のSM映画の成否が映画中での緊縛のQualityに左右されることは言うまでもなく、特に一般人のみならずマニアをも満足させるSM映画と作るためには、有末氏のような第一級の緊縛師の参加は不可避であろう。
「緊縛指導」を中心にキーワードとして、年代を遡りながら最近の映画をサーチしてみると、多数の緊縛師が緊縛指導として関わった映画が見つかってくる。
SM映画が最もその隆盛を極めた1970年代、1980年代には、どのような人達が緊縛指導をしていたのであろうか? 映画スタッフの記録があまり詳細でない時代(特にピンク映画は)ではるが、奇譚クラブや裏窓といったマニア雑誌の記事を頼りにすることで、その様子を、不完全ではあるがうかがい知ることができる。
以下、複数回に分けて、歴史の古い順にSM映画の緊縛指導に関わったと思われる人達を紹介していきたい。
第1回目は 名和弓雄 氏 に登場していただく。
国内最初のSM映画がどの作品にあたるのか? はっきりとしたコンセンサスはないが、複数のマニアの方が1964年の小森白監督『日本拷問刑罰史』(新東宝)がそれに相応しいものではないかと指摘している。
64年がどのような時代かをざっと記してみよう、1960年に「風俗奇譚」が創刊。62年には濡木痴夢男氏が裏窓の二代目編集長。同時期に「悪書追放運動」が始まる。同じく62年に、日本最初のピンク映画とされる小林悟監督の『肉体の市場』が発表。63年に連載3回でストップしていた「花と蛇」が奇譚クラブで再開(花巻京太郎から団鬼六に作者名変更)。65年に「サスペンスマガジン」創刊。同年、11PMが放送開始。また、オサダ・ゼミナールが発足、といった感じである。もちろんSMという言葉はまだ一般社会の人々には知られていない時代である。
さて、「新東宝」といえば、昭和生まれの世代はピンク映画を連想する。しかし日本映画の歴史を辿ると、「新東宝」は、まず東宝株式会社の組合を脱退した俳優、監督が中心に1947年に設立した「新東宝映画製作所」として誕生している(後に新東宝株式会社)。嵐寛寿郎、丹波哲郎などを抱える、お堅い映画会社として生まれている。後に話の出てくる石井輝男監督も新東宝出身であることに注目したい。 経営は順調とはいかなかったらしく、1955年に後の大蔵映画(上記のわが国最初のピンク映画『肉体の市場』に深く関連)の創立者である大蔵貢が事実上の買収で社長となる。大蔵は「安く、早く、面白く」で改革を試み、多くの新人を生み出したが、やがてそのワンマン体制から離脱者を生み出し、とうとう60年に大蔵は新東宝から追放され、その後、61年に新東宝株式会社は倒産してしまっている。
昭和後半生まれが「ピンク映画の新東宝」として認識している「新東宝」は、正確にはこの「新東宝株式会社」ではない。61年に倒産したあと、旧会社の有志が作った「新東宝興行株式会社」(後に、「新東宝映画株式会社」)がそれである。似たような名前が続々と出てくるので、便宜上61年までの新東宝を「旧『新東宝』」、61年以降を「新『新東宝』」としておく。
小森白(きよし)監督(1920-)は、旧「新東宝」の設立当時から活躍し、倒産後も新「新東宝」へと制作の場を移して活躍した名監督である。そしてこの『日本拷問刑罰史』は新「新東宝」からの配給映画となる。余談になるが、大蔵貢が新東宝を追い出されから設立した「大蔵映画株式会社」の第1作が小森白監督の「太平洋戦争と姫ゆり部隊(1962)」である。小森白監督と石井輝男監督は大蔵貢が育てたとされるので、ある意味大蔵は日本SM映画の父とも言える。
話が少し小森白監督にずれてしまったので、本題の名和弓雄氏に戻ろう。『日本拷問刑罰史』は原作が名和弓雄となっている。名和弓雄は1912年(明治45年)生まれ、2008年(平成18年)永眠。時代考証家、武道家。「正木流万力鎖術第10代宗家。拷問具のコレクションは現在明治大学刑事博物館に収蔵。」などとの記述ある。これを読むと、名和は学者肌の歴史研究家で、小森白監督に乞われて、拷問の時代考証をしたのだな、と思ってしまう。実は、それがそうでもないのである。
「裏窓」1965年(昭和40年)1月号に「『日本拷問刑罰史』撮影裏話」と題した名和弓雄氏の寄稿が載っている。それを読むと、「裏窓」に連載(1962年2月号から4月号まで『日本拷問史』を連載。5月号には『西洋拷問史』。6月号からは『日本刑罰史』を12月まで連載。)していたものを『日本刑罰史』をまとめて出版(1962年の雄山閣『拷問刑罰史』か?)したところ、新東宝の並木社長が「これはいける」、と飛びついてきた。私も、それまでの時代物映画のいいかげんな考証をなんとかしなければと思っていたところであるし、しかも監督の小森白は時代物映画を撮るのが初めてらしいので、きちんとした考証の映画を撮ってくれるかもしれない」という内容のいきさつから始まり、映画撮影の様子が詳しく書かれている。
制作への関わりは、想像していたような「時代考証に関して専門的なコメントを出す」といった消極的なものではない。名和にとっては、自分が作りたかった「拷問シーンだけで構成された映画」が夢かなって作れる、ということで、かなりの気の入れようである。ノリノリなのである。ロケ地の選択だけで、監督と1週間あちこちを見回ったとある。女優達の緊縛や拷問に対する困惑ぶりも面白くおかしく書いている。某女優は「お乳が映るのは困ります」と、磔シーンで足を折り曲げ必死に乳首を隠そうとしてなかなか撮影が進まなかった、と回想している。全裸で撮影するシーンは、映画女優は使えないので、ストリッパーを調達してきたと書いてある。その他にも、縄がいたくないように、巧みにカバーをしたことや、命がけの海中での逆さ磔の撮影シーンなど、苦労話がたくさん披露されている。
『名和弓雄』は、いわゆる伊藤晴雨や須磨利之といった初期の緊縛師として知られているわけではないが、上記の『日本拷問刑罰史』の制作過程を見る限り、日本最初のSM映画において『日本最初の緊縛指導』者と結論してもよいのではなかろうか。
残念ながら私はこの『日本拷問刑罰史』を見たことはない。ただ、後にも出てくる石井輝男監督の『徳川女刑罰史(1968)』『徳川いれずみ師 責め地獄(1969)』の冒頭には、数々の江戸拷問刑のシーンが使われている。小森作品のスチール写真と非常に似た印象をもつ映像なので、『日本拷問刑罰史』をかなり意識しながらこの冒頭シーンを撮影したのではないかと想像している。
(画像は『日本拷問刑罰史』より森美沙の磔シーン)