テンプレート:緊縛の捕縄術起源論
概要
戦後、辻村隆、濡木痴夢男、明智伝鬼など、多くの緊縛師が捕縄術の技法を参考にしながら、昭和SMの緊縛スタイルを開発してきた。その意味で、捕縄術は、昭和SMに一定の影響を与えているが、決して捕縄術から昭和SMが誕生したわけではない(→『緊縛の捕縄術起源説』の頁参照)。昭和SMのルーツを伊藤晴雨に求める立場にたつと、伊藤晴雨が実践を始めた大正時代に、どれほどの捕縄術からの影響をうけていたかが問題となる。伊藤晴雨自身が捕縄術を実践していたとする資料は見つかっていないが、捕縄術や江戸時代の公刑であった拷問には、芝居、絵画や小説での責めと同様に興味・知識を持ち合わせていたのは、戦後に書かれた多くの著作物から明らかである。ただし、SM実践を開始した後に書かれた『責の話』(温故書屋, 1929)には「責め」と「拷問」の違いを論じてはいるものの、捕縄術への言及はほぼなく、戦後の改訂版『責の話』(粹古堂, 1952)では、「女の縛り方は公私の別」があるとして、公刑で用いる責めと、個人(私)の楽しみ(性慾)のために使用できる責めを峻別している。伊藤晴雨は、幼少の頃から芝居、絵画、小説の責め場に強い興味を示していたことも考慮すると、SMの誕生に強く影響を与えたのは捕縄術よりはむしろ、芝居、絵画、小説であったと考えるべきである[1]。芝居、絵画、小説の責め場が、捕縄術の影響を受けていたとの指摘もできるが、伝承ではあるが、説教節の『安寿姫』などがすでに責め場を含むことを考えると、「責め」は古来から、文芸モチーフとして存在していたと考えるべきであろう。
主な出来事
1929年(昭和4年)、伊藤晴雨は『責の話』で、自身の雪責めの実践記に加え、何人かの責めの実行者を紹介している。その他は、芝居や小説の中の責め場の解説。
1952年(昭和27年)、『責の話』(粹古堂, 1952)[注 1]の「女の縛り方と責めの方法」では、「女の縛り方は公私の別」があるとし、「公刑の場合は腰縄又は菱縄」「公刑の場合を除けば胸から二の腕にかけて緊しく縛り上げるのが普通」と解説。
1953年(昭和28年)4月、奇譚クラブ1953年(昭和28年)4月号の辻村隆・塚本鉄三『後手と高手小手による緊縛美の考察』で捕縄術に影響を受けたことを伺わせる写真が掲載。
1953年(昭和28年)5月、奇譚クラブ1953年(昭和28年)5月号の嶽収一『捕縄雑考』で捕縄術に関する書籍の情報をもとに緊縛実践したことの報告をしている。
2000年(平成12年)、TatuがShibari Source Floridaを創設。『道』に関連させて緊縛を広める。
2001年(平成13年)、Midori/美登里が "The Seductive Art of Japanese Bondage", Fire Horse Productions, Inc., Eugene, OR (2001)の中で、15世紀の捕縄術の説明の後に、”It's widely believed that our current Japanese erotic rope restraint techniques originated during this period"と表記。
2008年(平成20年)、Master "K"が”The Beauty of Kinbaku" (King Cat Ink, 2008)の中で、15世紀の捕縄術の説明の中で "Regardless of its exact origins, what is clear is that hojojutsu was and is a very effective means of capture and binding and understanding its basic techniques is vital to an understanding of how modern shibari/kinbaku evolved"と述べている。
引用文献
- ↑ Ugo "Kinbaku – An Evolving Era – Part 2" in KinbakuToday, 2020.12.20
注釈
- ↑ 1929年(昭和4年)『責の話』に加筆・改訂したもの