テンプレート:緊縛の捕縄術起源論

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伊藤晴雨責の話』(粹古堂, 1952)より。伊藤晴雨の絵の中でも、比較的捕縄術本縄からの影響を強く感じさせる作品の1つ。

概要

主に欧米で広がっている「現代緊縛の起源を日本の「捕縄術」に求める」説。欧米人を含め異論を唱える人[注 1]が多い中で、2020年 (令和2年)10月24日に京都大学で開催された『「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」』で、緊縛の捕縄術起源論が研究者から発表され、その後、議論をまき起こした(→『シンポジウム「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」騒動』参照)。

戦後、辻村隆濡木痴夢男明智伝鬼など、多くの緊縛師が捕縄術の技法を参考にしながら、昭和SMの緊縛スタイルを開発してきた。その意味で、捕縄術は、昭和SMに一定の影響を与えているが、決して捕縄術から昭和SMが誕生したわけではない(→『緊縛の捕縄術起源説』の頁参照)。昭和SMのルーツを伊藤晴雨に求める立場にたつと、伊藤晴雨が実践を始めた大正時代に、どれほどの捕縄術からの影響をうけていたかが問題となる。伊藤晴雨自身が捕縄術を実践していたとする資料は見つかっていないが、捕縄術や江戸時代の公刑であった拷問には、芝居、絵画や小説での責めと同様に興味・知識を持ち合わせていたのは、戦後に書かれた多くの著作物から明らかである。ただし、SM実践を開始した後に書かれた『責の話』(温故書屋, 1929)には「責め」と「拷問」の違いを論じてはいるものの、捕縄術への言及はほぼなく、戦後の改訂版『責の話』(粹古堂, 1952)では、「女の縛り方は公私の別」があるとして、公刑で用いる責めと、個人(私)の楽しみ(性慾)のために使用できる責めを峻別している。伊藤晴雨は、幼少の頃から芝居、絵画、小説の責め場に強い興味を示していたことも考慮すると、SMの誕生に強く影響を与えたのは捕縄術よりはむしろ、芝居、絵画、小説であったと考えるべきである[1]。芝居、絵画、小説の責め場が、捕縄術の影響を受けていたとの指摘もできるが、伝承ではあるが、説教節の『安寿姫』などがすでに責め場を含むことを考えると、「責め」は古来から、文芸モチーフとして存在していたと考えるべきであろう。

欧米ではインターネットの普及と共に、1990年代終わり頃から日本の緊縛に感心が集まっていた[1]。その中で『緊縛の捕縄術起源論』が生まれていた可能性があるが、現在、主な引用元となっているのは、Midori/美登里が2001年に出版した "The Seductive Art of Japanese Bondage", Fire Horse Productions, Inc., Eugene, OR (2001)である。Midori/美登里は1980年代から長池士と交流をもっている。Midori/美登里の著作のやや後に発刊された、Master "K"の著作も引用が多い。

主な出来事

1929年(昭和4年)、伊藤晴雨は『責の話』で、自身の雪責めの実践記に加え、何人かの責めの実行者を紹介している。その他は、芝居や小説の中の責め場の解説。

1952年(昭和27年)、『責の話』(粹古堂, 1952)[注 2]の「女の縛り方と責めの方法」では、「女の縛り方は公私の別」があるとし、「公刑の場合は腰縄又は菱縄」「公刑の場合を除けば胸から二の腕にかけて緊しく縛り上げるのが普通」と解説。挿絵の中には本縄と思われる縛りの作品がある。

1953年(昭和28年)4月、奇譚クラブ1953年(昭和28年)4月号の辻村隆塚本鉄三後手高手小手による緊縛美の考察』で捕縄術に影響を受けたことを伺わせる写真が掲載。

1953年(昭和28年)5月、奇譚クラブ1953年(昭和28年)5月号の嶽収一捕縄雑考』で捕縄術に関する書籍の情報をもとに緊縛実践したことの報告をしている。

1962年(昭和36年)、名和弓雄裏窓2月号から4月号まで『日本拷問史』を連載。『西洋拷問史』『日本刑罰史』と続く。

1964年(昭和39年)、小森白監督の『日本拷問刑罰史』(新東宝)。

1965年(昭和40年)、藤田西湖の『図解捕縄術』井上図書版。

1966年(昭和41年)、名和弓雄サスペンスマガジン10月号に『続・日本拷問刑罰史』

1970年(昭和45年)前後、『濡木痴夢男の繩による 豪華緊縛フォト集 繩に悶える女たち』(共和出版)の中の『濡木流緊縛十八種』で捕縄術に影響を受けたと伺わせる縛りが紹介されている。

1971年(昭和46年)9月、ナック情報9臨時増刊号『SMパンチ情報』の「これがほんとの縛りだ!」に「縛りの源流は、古武道にはじまる。かの柔術の元祖日下捕手開山・竹内流・捕縄術の伝書には、三十一種類の縄のかけ方が遣されている。」「竹内流の本縄七カ条のうちの一つ、亀甲縄」などの既述がある。

1973年(昭和48年)3月10日、額田厳結び』の中で方圓流の十八法が絵入りで紹介。

1973年(昭和48年)4月、SMキング4月号に『キング緊縛教室① 早縄』(辻村隆が指導)。

1973年(昭和48年)10月15日、大隅三好が『捕物の歴史』を発刊。

1981年(昭和56年)1月15日、スペシャリーS&M No.15の白川壮(=志摩紫光)『実践縄縛術 2』で「江戸時代の 罪人によく見られた「本縄」と呼ばれる縛り方」を紹介[注 3]

1987年(昭和62年)12月20日、名和弓雄拷問刑罰史』が出版。捕縄についても解説。

1992年(平成4年)9月15日、板津安彦与力・同心・十手捕縄』が出版

1995年(平成7年)、志摩紫光がビデオ『縛りと責めのテクニック1 女囚古縛』を製作。

1995年(平成7年)、吉永五月の『「SMプレイ」その考察 現役繩師が語る緊縛界のモラルと悦楽』の中で「日本の場合、方円流という 古式捕縄術がルーツとなる縛り方、例えば高手小手等、今SMプレイでポピュラーになった縛り方もあり、『緊縛美というジャンルも確立すらした。しかしこれはSM プレイの中では極めてまれな日本人ならではの国民性による定型化と言える世界で唯一の例ではなかろうか。」と述べている[2]。ここでの「現役繩師」は長池士のこと[注 4]

1996年(平成8年)、海外向けの英語版SM情報サイト「Kikkou.com」が開設。

1996年(平成8年)、明智伝鬼神浦匠縛友会を設立。この頃から「古典縄の発掘を本格手に開始」とあるが、裏付け資料は調査中。

1997年(平成9年)4月、ベルギーのフェティッシュ雑誌、Secret Magazine12号, pp.53-55に 秋田昌美の"Punishment and the beauty of Japanese bondage (Kinbaku): The History of S&M in Japan" が掲載。"The Tokugawa government laid out in 1742 the foundation of crime laws, which spelled out seven different types of punishment ......It has to be noted that all four official methods of torture from this period are still considered the main stream torture patterns in the S&M art today. You could say the foundation of today's S&M art was laid down then."

1998年(平成10年) 、Tatuが自身のHPの「History & Style: East vs West」の中で、"Japanese rope bondage as an erotic art form, really is not that old. Many labor under the illusion that it goes back for centuries, but in reality is only a few decades old going back to only the late 1800's or early 1900's."と書いている。

1999年(平成11年)5月、濡木痴夢男が『緊縛の美・緊縛の悦楽』の中で、藤田西湖図解捕縄術』、板津安彦与力・同心・十手捕縄』、大隅三好捕物の歴史』に言及[注 5]

2000年(平成12年)頃、パラダイスTVの『SM匠の世界 ~明智伝鬼の世界~』で「最近、古流捕縄術の研究をしている」と捕縄の説明をおこない、実例として渡し縄を披露。

2000年(平成12年)、TatuShibari Source Floridaを創設。『道』に関連させて緊縛を広める。

2000年(平成12年)11月1日、水越ひろ詳解捕縄術』が発刊。

2001年(平成13年)8月、TatuがYahoo Groupで「Adult Rope Art 」ディスカッション・グループを開始[3]

2001年(平成13年)、Midori/美登里"The Seductive Art of Japanese Bondage", Fire Horse Productions, Inc., Eugene, OR (2001)の中で、15世紀の捕縄術の説明の後に、”It's widely believed that our current Japanese erotic rope restraint techniques originated during this period"と表記。

2002年(平成14年)、乱田舞が『完全緊縛マニュアル 初級編』(バッキービジュアルプランニング, 2002)の中の「SM歴史」のなかで「日本の緊縛の歴史は室町時代までさかのぼります」と説明[注 6]

2004年(平成16年)、Master "K"Art of Shibari" (Secret Publications, 2004)の中で、"Many of the images of modem Japanese S/M are drawn from the times of the Sengoku jidai or War Period of feudal Japan which stretched from 1492 to 1560."と表記。また”In 1742 the Tokugawa government decreed seven different types of official punishments for crimes and four kinds of torture. Two of these, ebizeme (being bound by rope) and tsurizeme (being bound and suspended by rope) became the direct ancestors and inspirations for what would become the shibari art. As Masami Akita accurately observed in his fascinating 1996 study, Nihon Kinbaku Shashin Shi (The History of Bondage Photography in Japan), 'You could say that the foundation of today's S /M art was laid down then.'"と秋田昌美濡木痴夢男不二秋夫日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996)を引用。ただし、同書の該当部分の原文は「晴雨はもちろん日本の伝統的な拷問刑罰の研究を行っており、「責めの研究」の中では百二十種\ 二百六十種に分類、命名も行っている。晴雨は吊し、雪責めの他にも、蝋燭責め、海老責め、石抱き、水責め、叩き責め、焼いぶし責め等の実験と撮影に関与したと伝えられるが、その内で最も意欲を燃やしたのは、縛り、吊り、叩き、雪責めの四種類である。」である。

2005年(平成17年)8月1日、水越ひろ写真で覚える捕縄術―手にとるようにわかる完成手順』が発刊。

2008年(平成20年)、Master "K"”The Beauty of Kinbaku" (King Cat Ink, 2008)の中で、15世紀の捕縄術の説明の中で "Regardless of its exact origins, what is clear is that hojojutsu was and is a very effective means of capture and binding and understanding its basic techniques is vital to an understanding of how modern shibari/kinbaku evolved"と述べている。

2009年(平成21年)5月1日、日本在住の米国人SM愛好家KabukiJoeが、自身のサイトSM探偵Master "K"にインタビュー。捕縄術との関わりについて掘り下げた質問をしている[4]。下は部分的な抜粋。

(K, KabukiJoe)"It is said that modern kinbaku comes from hojojutsu. "
(M, Master "K")"yes, hojojutsu is one, but not the only, important ancestor of modern kinbaku. "
(略)
(K)"And you're saying this is still related to hojojutsu?"
(M)"Of course. These "complex" styles were, as I've just mentioned, part of honnawa hojojutsu and this tradition has been incorporated into modern kinbaku. In the Edo era these ties would be carefully applied with several constables in attendance guarding the prisoner."
(略)
(K)"I had always thought that hojojutsu was merely a practical, simple and no-nonsense (albeit codified) method of binding and torturing. No fancy stuff.”
(M)"Again, your conclusion simply speaks to your lack of access to good information. I show a number of beautiful hojojutsu patterns in my book and I assure you they are all authentic."
(略)
(K)"Is there anyone in the modern era who can claim any sort of "lineage" when it comes to shibari?"
(M)"when Itoh Seiyu began his explorations of seme (torment), we know from the various testimonies of his colleagues and the many study photos and sketches he produced and left behind, that he had learned hojojutsu skills from an original practitioner [注 7]and applied those to his researches. Itoh, in turn, passed on many of these techniques and designs to others, including Minomura Kou (Kita Reiko) [注 8]who was a member of Itoh's circle. Minomura, in turn, influenced Nureki Chimuo and Dan Oniroku and they have influenced many, many more. And so it goes."

2009年(平成21年)、有末剛は海外向けに作られた『有末剛の 緊縛の心と技 1』(十五や, 2009)の中で、"when we think about history of kinbaku, we are obliged to primarily think about a traditional art of capture and binding "捕縛術 or 捕縄術" in Edo period" "I will leave this topic for other practitioners and researchers. The kinbaku I am pursuing is an art of rope bondage, which does not always match the purpose of hobakujutsu which is to capture criminals and make them incapable of escape"と述べている。

2011年(平成23年)6月1日、板津和彦一達流捕縄術』が出版。

2013年(平成25年)9月6日、小林繩霧が中国語で刊行した『繩縛本事』では「捕縄術的許多技法與様式深遠影響了現代日式繩縛(捕縄術のさまざまな技法や様式は、現在の日本式緊縛に深く影響している)」と書かれている。

2016年(平成28年)3月1日、青山夏樹による『現代緊縛入門』の第一章「緊縛の歴史」の冒頭には「縄で人を縛る、という行為は日本の歴史の中で遥か昔から存在していた。それは、今私たちが目にしているエロティシズムの表現としての縛りではなく、戦い や司法において刑を執行するための縛りである。」と説明されている。

2019年(令和元年)8月頃(確認中)、Rope101の「A Brief History of Rope Bondageには"there does not appear to be any direct lineage from early hojojutsu to modern-day shibari."と書かれている。

2020年 (令和2年)3月25日、Aimu Ishimaruエロスでありアートでもある。江戸の武術から始まった美しき緊縛の世界の中で「緊縛のルーツは、応仁の乱から戦国時代にかけて武士に重宝された戦闘技術としての捕縛術まで遡ります。」と紹介。

2020年 (令和2年)10月24日、京大文学部校舎第3講義室で『「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」』が開催。人社未来形発信ユニットと文学研究科応用哲学・倫理学教育研究センターの共同主催。YouTube動画として終了後も公開。

2020年 (令和2年)11月5日、予定より1日早くYouTubeの動画の公開を、「シンポジウムの動画の一部について不愉快と感じられた方には申し訳ございません。」のコメントを掲載すると共に停止[5]

2020年 (令和2年)11月11日、NHKで「ネット上での批判を受け京大がYouTubeの動画を11月5日頃に謝罪し削除」といった内容のニュースが報道[6]

2020年 (令和2年)11月13日、朝日新聞が『「緊縛」シンポ、京大が動画公開中止して謝罪_批判受け』の記事。

「シンポジウムでは緊縛師や研究者らが、戦国時代の捕縄術を起源とする緊縛が歌舞伎や浮世絵などを通して大衆文化に浸透し、日本のSM文化の一部として定着した歴史を解説。」とある。

2020年 (令和2年)11月13日、朝日新聞英語版で上記の英語ニュース。"They explained that kinbaku originated from the martial arts and its methods of restraining captives in the age of provincial wars that raged from the mid-15th century to the early 17th century."と表記。

2020年 (令和2年)12月9日、Smart FLASH出口康夫へのインタビュー記事『「“緊縛”研究は女性蔑視にあらず!」京大教授がYouTube動画へのクレームに猛反論』が掲載。週刊FLASH 2020年12月22日号のWeb版。

「謝罪はあくまで、動画の視聴者が持たれた『不快感』に対するもの。」
「批判を受けて(YouTube動画の)公開を取り下げた」もではなく「書籍にする予定で、同じ内容のものをいつまでもネットに上げておくのは具合が悪いから」
「緊縛を「女性蔑視」と斬って捨てるのは間違い」

2020年 (令和2年)12月22日、京都新聞に『京大で緊縛シンポ、ネット配信後の「謝罪」に議論 問われた学問の在り方とは』の記事。

京都新聞:「専門外を研究する時の学者の倫理」の問題を提起。「京大の対応は「学問の自由」に伴う責任感が欠けていた」と指摘。
小西真理子「学問が『権威』となり、緊縛やSMをより差別される状況に追い込んでしまう懸念がある」「学問として、当事者のいる領域に向き合う時に重要なことは何か、考え直す必要がある」
河原梓水「アメリカ人縄師による臆説をそのまま語るものであり、学術的根拠に乏しい。」


2021年 (令和3年)1月9日、河原梓水note上で同シンポジウムの学術的問題点を提起開始[7]。2020年 (令和2年)11月3日に河原梓水から主催者宛に送られた批判文が掲載。

「緊縛からKINBAKUへ 緊縛入門ミニ講義」の内容が多くの誤りや未検証事項が含まれる。」「いたずらに緊縛を武士文化と結びつけ伝統化するもので」「大きな悪影響を研究・SM業界双方に及ぼ」す。
「結果的に緊縛の歴史に関する偽史が世界に流布」[8]
「緊縛からKINBAKUへ 緊縛入門ミニ講義」は「マスターK著『緊縛の文化史』(すいれん舎、2013年)からの全面的参照(剽窃)で成り立っている。」[8]

2021年 (令和3年)3月13日、神凪神楽が「History and diversification of Kinbaku★緊縛の歴史と多様性」と題し河原梓水による問題提起を英語で紹介。「決して、捕縄術から昭和SMが誕生したという史料的根拠があるわけではありません。」が重要であると指摘。

2021年 (令和3年)8月31日、『フィルカル』 Vol. 6, No. 2 に 河原梓水小西真理子による小特集 『京大・緊縛シンポジウムを考える』が掲載。

2021年 (令和3年)9月26日、Ugoによる『『緊縛の捕縄術起源説』を考える』がSMpedia上にアップロード。

2021年(令和3年)10月1日、京都大学での日本倫理学会第72回大会で「〈 応用〉することの倫理――緊縛シンポ、ブルーフィルム、ジェンダー」ワークショップ。登壇者は奥田太郎小西真理子河原梓水佐藤靜吉川孝

2021年(令和3年)12月29日、緊縛哲学研究会HPに出口康夫謝罪:緊縛シンポジウムについて」、山森真衣子藤峰子「緊縛シンポジウム」における「ミニ講義」についての謝罪および内容の訂正」が掲載。

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主なドメイン名の登録日 のページ参照。

『緊縛の捕縄術起源説』を考える

日本の緊縛捕縄術に強く影響を受けていることは疑いのない事実であろう。伊藤晴雨の著作の中には、数多くの早縄に関連した記述があり、また、絵画作品の中にも晴雨が本縄の研究をしていたことを伺わせるものもある。奇譚クラブの記事に中には、捕縄術に言及したものは多くあり、また、同誌の辻村隆他の写真の中にも、捕縄術に影響されたと思われる縛りが散見される。

濡木痴夢男明智伝鬼志摩紫光春兜京などは、積極的に捕縄術の資料を収集し研究しており、他の緊縛師も程度の差はあれ、捕縄術早縄本縄への興味を示している。このように、現代緊縛が、捕縄術の影響を受けていることは疑いようのない事実ではある。ただし、「現代緊縛は捕縄術の影響を受けている」と「現代緊縛は捕縄術にその起源をもつ」とは全く別の話である。以下に、欧米で『緊縛の捕縄術起源説』が広まった経緯と背景を紹介しながら、『緊縛の捕縄術起源説』の妥当性を検証してみる。

奇譚クラブの時代から日本と欧米の愛好者の間での交流はあったようだが、爆発的に情報交換が始まるのは、インターネットが普及する1990年代中頃からである。1996年(平成9年)には、海外への日本SMのコンテンツ販売を狙ったKikkou.comが日本で開設され、志摩紫光乱田舞の動画、豊浦正明の緊縛写真などが発信された。2001年に長田スティーブに所有権が移った後には、一挙にコンテンツが増え、当時の著名日本人緊縛師の情報が海外に広める役割を果たしている。

1990年度の後半から2000年前後にかけて、インターネット上で趣味を同じくする人々が集まる、いわゆる「フォーラム」「Discussion Group」と呼ばれる活動が国内外で活発になる。いわゆる欧米でのBDSM愛好者グループ中でも、特に日本式の緊縛に興味を持つ人の集まるグループもいくつかあったようだ。その中の1つの「Adult Rope Art」は2001年8月に開設されたYahoo Groupで、開設者は米国フロリダ在住のBDSM愛好家Tatuである。Tatuが、日本文化の愛好者であることもあってか、Adult Rope Artでは主に日本緊縛に焦点を絞った情報交換がおこなわれていた。最盛期には会員数が 14,000人いたとされ、海外での日本緊縛の広がりに少なからず影響を与えたと思われる。Tatuは、同時にAdult Rope Artのホームページを運営しており、そこにあるTatuの略歴によると、乱田舞のビデオを初めて観た1993年頃から従来の西洋式のロープワークから日本式緊縛にシフトし、同じ頃に、米国の武術家Don Angierが1988年に制作した捕縄術のビデオに衝撃を受けたとある。独自にまとめた緊縛の歴史も掲載しており、その内容はいわゆる『緊縛の捕縄術起源説』を採っていることが分かる。

Webのアーカイブからは、Tatuが正確にいつ頃から『緊縛の捕縄術起源説』を主張しだしたかは分からないが、書籍として記録に残っているものでは、同じく2001年にMidoriが出版した"The Seductive Art of Japanese Bondage"の中に、15世紀の捕縄術の説明のあとに、”It's widely believed that our current Japanese erotic rope restraint techniques originated during this period"と書いている。「erotic rope restraint techniques」は日本式の現代緊縛技術と考えてよいであろうから、「日本緊縛は捕縄術の生まれた15世紀に起源をもつと広く信じられている」と書いていることになる。ただし、「広く信じられている」とあるように、Midori自身はその言説には責任はもちたくないという姿勢が伺える。2001年前後には、少なくとも米国では日本の緊縛は捕縄術に起源をもつと多くの関係者が考えていたことが想像できる。ちなみにMidoriは日本生まれのハーフで、中学卒業後米国に渡り、カリフォルニア州立大学バークリー校で心理学での博士号を取得しているセクシャリティ分野の研究者、教育者である。歴史学の専門家ではないが、講演や著作作品も多く、同時に、緊縛愛好家でもある。

Midoriの"The Seductive Art of Japanese Bondage"は、『緊縛の捕縄術起源説』を展開する際にしばしば引用される文献であるが、同じくよく引用されるのが、Master "K"の著作である。Master "K"はマチュア緊縛愛好家で大学では東洋文化の研究をしており、大学時代の交換プログラムで東大に留学したこともあり、1970年代から日本式の緊縛をおこなっていたようだ。Midoriの"The Seductive Art of Japanese Bondage"の3年後の2004年に”The Art of Shibari”を出版しており、その中では詳細に日本の歴史が紹介され、"Many of the images of modem Japanese S/M are drawn from the times of the Sengoku jidai or War Period of feudal Japan which stretched from 1492 to 1560."と明記されている。「drawn from」であるので「現代日本緊縛のイメージは、15−6世紀からの引用が多い」となり、多くの緊縛師捕縄術などの古文書を研究していたことを考えると、妥当な表現なのかもしれない。その後に続いて、徳川時代の刑罰の中の “ebizeme (being bound by rope) and tsurizeme (being bound and suspended by rope) became the direct ancestors and inspirations for what would become the shibari art.”とある。現在の「海老縛り」や「逆さ吊り」がその起源を徳川時代の刑罰の「海老責」や「釣責」にもつことは、おそらくそうであろうが(後述のように伊藤晴雨がこれらの刑罰をプレイとしての責めに持ち込んでいる)、この2つがそうだからと言って、日本緊縛が捕縄術に起源をもつとは言えないであろう(そもそも、徳川時代の刑罰としての「海老責」や「釣責」が捕縄術に起源をもつのかどうかについても、結論を出すには相当の検証が必要であろう)。”The Art of Shibari”の序文でMaster "K"は友人であるMidori(および、ドイツ人の緊縛家Matthias T. J. Grimme)に対して協力の謝辞を述べている。Midoriの書籍に関してもでMaster "K"からの情報が影響を与えていたことも考えられる。

Master "K"は4年後の2008年に、後に日本語にも翻訳される”The Beauty of Kinbaku"を出版する。やはり詳細な緊縛に関連する日本文化が紹介されており、ここでは15世紀の捕縄術の説明の中で "Regardless of its exact origins, what is clear is that hojojutsu was and is a very effective means of capture and binding and understanding its basic techniques is vital to an understanding of how modern shibari/kinbaku evolved"と述べている。前著よりもより控えめな表現で捕縄術の現代緊縛への影響を述べている。

MidoriにしろMaster "K"にしろ、いわゆるアカデミックな研究者ではなく、まして歴史を専門とする研究者ではないが、理論的な話の展開ができる人で、『緊縛の捕縄術起源説』に関連した記述も、慎重に書かれているのが分かる。しかしながら、彼らの著書は、表面的には『緊縛の捕縄術起源説』を主張しているように読めるので、『緊縛の捕縄術起源説』を好むアマチュア緊縛家にとっては、引用しやすい文献となっているのであろう。特に欧米の緊縛文化にとっては、緊縛が捕縄術を起源にもつ方が収まりがよいといった背景があるのであろうが(これについては別頁で考察)、冒頭にも述べたように「現代緊縛は捕縄術の影響を受けている」は間違いないが、「現代緊縛は捕縄術にその起源をもつ」に関しては慎重に結論を出さなければならない。

現代日本の緊縛は、その系譜をたどれば、いまのところ近代SMの父とされる伊藤晴雨に収斂する。おそらく今後新たな資料が見つかったとしても、この事実は覆りそうにもない。したがって、「現代緊縛は捕縄術にその起源をもつ」かどうかの解答は、伊藤晴雨の活動の分析から得られるはずである。伊藤晴雨が、いわゆる捕縄術の使い手であったならば、日本緊縛は捕縄術=伊藤晴雨に起源をもつという言説もあながち無視はできないかもしれないが、そういったことを支持する資料はいまのところない。伊藤晴雨は、捕縄術を含め、芝居、絵画、小説に登場するいろいろな「責め」を研究していた。伊藤晴雨が日本SMの父と言われる所以は、刑罰としての公刑や、異常者の行動とされる「責め=SM」が、個人(私)の楽しみ(性慾)のために使用できるのかどうかを、晴雨の呼ぶところの「実験」で確認しながら、実践していった点である。その研究過程が多くの著作で残されている。伊藤晴雨はもちろん捕縄術に関しても相当の研究をしていたようではあるが、公刑で用いる責めと、個人(私)の楽しみ(性慾)のために使用できる責めは異なるものである、との結論を出してる。言い換えるなら、芝居、絵画、小説、捕縄術の研究を通じて、個人(私)の楽しみ(性慾)のために使用できる責め=SMを、伊藤晴雨自身がゼロから構築していったことになる(まさにこれが伊藤晴雨が近代SMの父と呼ばれる所以であある)。つけ加えると、見た目が美しい捕縄術の本縄の縄目に対する、伊藤晴雨の情熱を感じさせる言説は見いだせない。伊藤晴雨が重視したのは、あくまでも責められた女性の醸し出すエロチックな美しさであり、その美しさを、責め(緊縛を含む)でいかにうまく引き出せるかについて研究していたわけである。

By Ugo

初稿:2021/09/26(引用文献未完)

引用文献

注釈

  1. 例えばSinYear of The Bakushi』(CreateSpace Independent Publishing Platform, 2016)
  2. 1929年(昭和4年)『責の話』に加筆・改訂したもの
  3. 名和弓雄の著作物の絵を参考にしながら独自に研究。私信 to U, 2021/10/05
  4. 長池士は「奥山五月」の変名を使っているので、この吉永五月長池士自身の可能性がある
  5. 「こういう緊縛図解を描き残した役人たちの心には、なにやら「縄」に対する嗜好があったょうな気がしてならない。あまりにも縄を玩具として、もてあそびすぎているょうな気がしてならない。」と書いている。
  6. この作品はJapanBondage.TVを通じて遅くとも2005年には海外に向けて通販されており、紹介文をMaster "K"が書いている。
  7. 伊藤晴雨本縄を誰かに伝授されたことを言及した文献は今(2021)のところ見当たらない
  8. 伊藤晴雨が直接縛り方美濃村晃の伝授したことに言及した文献は今(2021)のところ見当たらない

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