開盛座
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かいせいざ。明治から昭和まで存在した浅草の芝居小屋。伊藤晴雨が看板を描いていた。佐原キセが同座の女役者だったとする説もある。映画と芝居の同時上演「連鎖劇」 を明治に。
概要
浅草七軒町(現在の新御徒町付近)に明治時代から大正から昭和時代まで存在した小芝居の芝居小屋。最初は倭座という名前でスタートしたが、途中いくつか名前を変えながら、1885年(明治28年)に開盛座となる。伊藤晴雨は1906年(明治39年)頃に開盛座の看板を描いていたようだ。伊藤晴雨の2番目の妻である佐原キセが開盛座の女役者をしていたという記述[1]があるが真偽は定かでない。伊藤晴雨は開盛座に出演していた巻野憲二一座の女形役者細野勝次に好意をもっていたようだ。
別名
倭座、大和座、家満登座、やまと座、福栄座、銀線座
所在地
浅草七軒町(現在の台東区元浅草1-8-2)[2]。
歴史
1877年(明治10年)頃、小芝居の小屋として倭座が浅草に開場[2]。
1883年(明治26年)4月、大和(倭)(家満登)座が福栄座となる。
1885年(明治28年)1月、福栄座が開盛座となる[注 1]。
1906年(明治39年)頃、伊藤晴雨は近くの柳盛座の巻野憲二一座と懇意にしていたが、その座員の阿部信夫が開盛座に移るに伴い、開盛座へも出入りするようになる[3]。
1906年(明治39年)頃、座長格の宮古紫郎の世話で伊藤晴雨が開盛座の絵看板を描き始める[3]。
1908年(明治41年)11月、最初期の連鎖劇である中野信近一座「幽霊鏡[注 2]」公演。
昭和に入って、大都座となり、さらに銀線座という映画館になる。
現在は銀浅ビルとなっている。
エピソード
- 開盛座は行政上小芝居に属する。
- 小芝居では「三色の引幕」「花道」「廻り舞台」「茶屋」が禁止。
- 開盛座のある通りは小鳥町通り。
- 「佐竹通りの賑やかな商店街は、下谷竹町通りに通じていて、どういう訳か古着屋が軒を並べていました。その北側に開盛座という芝居小屋がありました。客席は枡です。開盛座の通りを南に、和泉橋のほうに行くと、右手の大きな敷地に三井慈愛病院があり、裏手に市村座がありました。鳥越町の東は御蔵で、赤レンガ塀が長々とつづく邸が青地家で、江戸時代の札差業者でした。」[4]
- 泉鏡花の「三味線堀」(1910)は開盛座をモデルをしたと思われる。[5]
引用文献
注釈
お役たちweb
- 伊藤経一大正・昭和初期の浅草芸能
- 七軒町