SAMM
概要
1979年(昭和54年)頃に麻布台にオープンした賀山茂のSMサロン。
別名
所在地
港区麻布台1-4-3フェニックスビルB1F
歴史
1981年(昭和56年)6月20日、S&Mスナイパー1981年(昭和56年)9月号の記事にオープンの記事。経営者が賀山茂と明記[1]。
1981年(昭和56年)10月、花真衣が自縛ショーを始める[注 1]。
1981年(昭和56年)10月23日、SAMMでの団鬼六主催『黒ミサ・パーティー』のレポートがS&Mスナイパー1982年(昭和57年)1月号に。
1982年(昭和57年)6月、SAMMの客の一人であった新東宝の専務が花真衣を誘い『濡れ肌刺青を縛る』(監督:渡辺護)を作る。
1982年(昭和57年)12月、別冊S&Mスナイパー1982年(昭和57年)12月号に紹介記事。長田英吉が写っている。
1983年(昭和58年)、にっかつ『団鬼六 蛇の穴』(鬼プロ製作)の冒頭の花真衣自縛ショーのシーンがSAMMで撮影。
1984年(昭和59年)4月13日、ナイトタイムスに取り上げられる。
1984年(昭和59年)6月16日、独自のSM劇団を組織し、旗揚げ公演[2]。
1984年(昭和59年)6月23日、SAMM3周年記念パーティー[2]。
SAMMのオープン時期について
雑誌記事には1981年(昭和56年)6月20日のオープンイベントの記事が残っているため、1981年(昭和56年)にSAMMのオープンが1981年とする記述もあるが、賀山茂自身はHPなどで1979年(昭和54年)からSAMM活動していたことを伺わせる書き方をしている。また、SAMMを客として何回か利用した松本靖夫は、それらの利用が明確に1981年(昭和56年)以前(1979年から1980年)であったと証言している[3]。SMペディアでは、SAMMのオープン時期については1979年(昭和54年)説を採用する。
エピソード
- 麻布台にあった俳優座の養成学校稽古場の跡地[4]。
- 初期の会員の松本靖夫によると「飯倉片町の有名なレストラン「ニコラス」の隣でしたね。ニコラスが日本で最初にピザを出した店です。」[3]
- 長田英吉が定期的(週に何回か、8時と10時)にショーをやっていた模様。この頃、花真衣が長田英吉のショーパートナーとして参加[5]。
- 長田英吉、桜田伝次郎、明智伝鬼、根暗童子がSMショー。
- 早乙女宏美、花真衣、末次富士子[6]、森美貴などが出演。
- 団鬼六、梶山季之が集う[7]。
- SAMMはTV番組「キーハンター」の撮影によく使われていた[5]。
- 「前室がカウンターバーで、アラビアンナイト風の衣装をまとった、ややS風の女性がホステスをつとめる。」「ショーが始まると、会員だけが秘密のバーに入れるシステム。会員は入会金10万円で、一回遊ぶと8-10万円かかるので、相当のお金持ちしか会員になれない。」「当時としては珍しいカードキーがあり、それを差し込むと、一見壁のようなところが開き、奥の秘バーに。そこは広くて、舞台が中央に有り、丸テーブルがいくつも。洞窟の雰囲気。」[5]。
- 「牢獄の扉を開けてもらうと、まず、カウンターバーがあり、ショータイムが行われる8時になると奥のバーへ会員だけが入れるシステムでした。ショータイムは1日2回。あとはSMビデオがずーっと流れていました。ときおり、お客さん同士でプレイが始まることもありましたよ。 」[8]。
- 「年に1, 2回、パーティが行われていました。花真衣さんが出た回は今でもよく覚えています。初代葵マリさんも出てました。記憶に寄れば…。なぜなら、その後にスカがあったから。これは生まれてはじめてだったので、よーーーーく覚えています。パンにのせて食べていた人もおり、うわわーということで、奥の部屋には決して近寄りませんでした。」[8]。
- 「地下には中国人の料理人がいて、美味しい中華料理をサーブ。彼に教えてもらったクリーム煮を今でもお店で出している」[5]。
ビデオ
-
別冊S&Mスナイパー1982年(昭和57年)12月号に紹介されたオープン2年目のSAMM