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[[画像:Ozuma4.jpg|350px|thumbnail|*[[団鬼六]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4898292410/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4898292410 異形の遊戯]'''』(ワニマガジン, 1996.7.10)より。]]
[[画像:Ozuma4.jpg|350px|thumbnail|*[[団鬼六]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4898292410/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4898292410 異形の遊戯]'''』(ワニマガジン, 1996.7.10)より。]]

2019年9月25日 (水) 10:46時点における版

小妻容子中野正人小妻容子 <刺青画>の世界SMクラブ1984年(昭和59年)4月号より。)
小妻容子の名前で奇譚クラブの「告白・手記・体験懸賞」に応募し入選となった『黒いコートの記憶から』の挿絵。奇譚クラブ1965年(昭和40年)9月号より。
小妻要の名前でSMキング1974年(昭和49年)6・7月合併号からの表紙を担当。
小妻要の名前で別冊SMファン1976年(昭和51年)4月号からの表紙を担当。
SM秘小説1982年(昭和57年)4月創刊号。小妻要の絵。
*団鬼六異形の遊戯』(ワニマガジン, 1996.7.10)より。

おずま かなめ、1939年(昭和14年) 1月19日- 2011年(平成23年)9月27日

概要

絵師。10代の頃から叔父である日本画家、坂井草子に絵の手ほどきをうける。大学卒業後、デザイン会社に就職し、1965年(昭和40年)から奇譚クラブに責め絵の投稿を始めている。1970年代のSM雑誌ブームで一躍、責め絵師として注目を集め、SMセレクトSMファンSMキング別冊SMファンSM秘小説SMクラブSM奇譚などの主たるSM雑誌に多くの作品を発表した。刺青美人画を得意とし、国内外に多くの支持者をもつ。元日本出版美術家連盟副会長。

別名

Kaname Ozuma 小妻要 小妻容子 坂井勝利(本名)

略歴

1939年(昭和14年)、新潟県柏崎生まれ。

1950年(昭和25年)、叔父の日本画家・坂井草子(坂井辰次)に師事。

1956年(昭和31年)、上京、中央美術大学院入学

1958年(昭和33年)、肺結核療養のため新潟県柏崎市に戻る。

1959年(昭和34年)、柏崎市の小田印刷デザイン部に入社、画判、版下担当。

1962年(昭和37年)、再度上京。戸井版画工房入社。

1965年(昭和40年)、栗津画廊にて画業育成の指導を受ける。

1965年(昭和40年)、奇譚クラブ9月号に小妻容子黒いコートの記憶から』が懸賞入選作品として掲載。

1968年(昭和43年)、栗津画廊を辞し、新聞、雑誌などの挿画、表紙画、口絵を描く。

1972年(昭和47年)、小妻要画集『女人幻想』(萃擁社)刊行。

1974年(昭和49年)6月、『SMキング』6・7月合併号から表紙を担当。

1976年(昭和51年)4月、『別冊SMファン』の表紙を担当を描き始める。

1982年(昭和57年)4月、『SM秘小説』の創刊号からの表紙を担当。

1984年(昭和59年)4月、SMクラブ4月号に中野正人によるインタビュー記事[1]

1986年(昭和61年)、中央区銀座ロイヤルサロンギンザに於いて個展開催。

1987年(昭和62年)4月21-26日、ロイヤルサロンギンザにて『出版画実術家連盟8人展<艶>』。小妻要小悪征夫堂昌一沢登みよじレオ澤鬼西村春海日影眩前田寿安

1987年(昭和62年)、小妻要沢登みよじ堂昌一西村春海レオ澤鬼で「艶5人展」発足[注 1]

1997年(平成9年)、報知新聞、文芸家クラブ大賞、挿画賞受賞。

2009年(平成21年)、ヴァニラ画廊に於いて個展。『刺青美女・縄の情念と柔肌の

2009年(平成21年)9月18日〜11月28日、風俗資料館にて『小妻容子秘画帖~豊艶の濫り~

2010年(平成22年)1月、初代彫蓮とボディーペイントショーコラボ制作。

2010年(平成22年)8月26日ー9月18日、ロサンジェルス「Known Gallery」にて"OZUMA KANAME & HORIYOSHI III - IREZUMI BIJIN"が開催。

2011年(平成23年)9月27日、永眠。

2012年(平成24年)9月25日~10月7日、画廊浅草ブレーメンハウスに於いて『小妻容子追悼絵画展』。

2013年(平成25年)5月3日~5月14日、京都・京町家ぎゃらりぃほりかわに於いて『小妻容子三回忌原画展』。

2015年(平成27年)3月10日-31日、六本木ナイトギャラリーCROWにて『小妻容子 vs 志摩紫光 責め画展』開催。

2015年(平成27年)5月5日~5月17日、ギャラリー新宿座にて『一人称二人展(小妻要小妻容子原画展)』

2019年(令和元年)9月15日〜30日、芳賀書店本店にて『小妻画伯追悼原画展

エピソード

  • 奇譚クラブへ投稿した初期の絵からも分かるように、太った女性に対する嗜好があったようで、独自のスタイルを確立した後も、しばしば豊満な女性の責め絵を描いている、
  • 2012年からの「原画展」は志摩紫光が中心にプロデュース。

作品

奇譚クラブに読者投稿した初期の作品

その他の雑誌

画集

引用文献

  1. 中野正人小妻容子 <刺青画>の世界SMクラブ1984年(昭和59年)4月号

注釈

  1. ロイヤルサロンギンザにてその後毎年開催。

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