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[[画像:Osada@GSG1.jpg|250px|thumbnail|[[GSG企画]]の舞台での[[オサダ・ゼミナール]]のショー。1980年頃と思われる。[[マニア倶楽部]]2011年(平成23年)9月号、[[桜田伝次郎]]「アブノーマルな表現者」より。]]
[[画像:Osada@GSG1.jpg|250px|thumbnail|[[GSG企画]]の舞台での[[オサダ・ゼミナール]]のショー。1980年頃と思われる。[[マニア倶楽部]]2011年(平成23年)9月号、[[桜田伝次郎]]「アブノーマルな表現者」より。]]
[[画像:Osada@GSG2.jpg|250px|thumbnail|[[[別冊SMファン]]1980年12月号に紹介されている西荻窪アトリエでの[[桜田信]]、[[黒川まゆみ]]出演の『SM繩縛展覧会』]]
==概要==
==概要==
[[桜田伝次郎]]が主宰したSMショーを定期開催していた団体。初期には[[GSG企画]]の会場で[[長田英吉]]が[[オサダ・ゼミナール]]の定例会を開催していたり、また、明智伝鬼が[[GSG企画]]のSMショーから舞台デビューしたことを考えると、昭和SMのSMショーの形成に重要な役割を果たした存在であることがわかる。
[[桜田伝次郎]]が主宰したSMショーを定期開催していた団体。初期には[[GSG企画]]の会場で[[長田英吉]]が[[オサダ・ゼミナール]]の定例会を開催していたり、また、明智伝鬼が[[GSG企画]]のSMショーから舞台デビューしたことを考えると、昭和SMのSMショーの形成に重要な役割を果たした存在であることがわかる。
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観客であった[[明智伝鬼]]は、次第にショーを手伝うようになり、やがてショーが終わってから、会員の前でモデルを緊縛し、それを後の[[鬼沢修二]]が撮影するといった形が定借してくる<ref group="注">[[桜田伝次郎]]の私信では、最初はあまり緊縛にこだわりのなかった[[明智伝鬼]]だが、このショーの終了後の緊縛イベントが始まり、めきめきと緊縛の腕を上げていったようだとのこと。</ref>。
観客であった[[明智伝鬼]]は、次第にショーを手伝うようになり、やがてショーが終わってから、会員の前でモデルを緊縛し、それを後の[[鬼沢修二]]が撮影するといった形が定借してくる<ref group="注">[[桜田伝次郎]]の私信では、最初はあまり緊縛にこだわりのなかった[[明智伝鬼]]だが、このショーの終了後の緊縛イベントが始まり、めきめきと緊縛の腕を上げていったようだとのこと。</ref>。


1980(昭和55年)12月、[[別冊SMファン]]12月号に『密室に展開される緊縛劇』として[[桜田信]]、[[黒川まゆみ]]出演の『SM繩縛展覧会』のレポート。
1980(昭和55年)12月、[[別冊SMファン]]12月号に『密室に展開される緊縛劇』として西荻窪アトリエでの[[桜田信]]、[[黒川まゆみ]]出演の『SM繩縛展覧会』のレポート。


1981年(昭和56年)、[[セルフ出版]]の[[劇画ブッチャー]]12月号増刊『風俗最前線1981』([[末井昭]]編集)に[[GSG企画]]の『SM飼育室』の様子が3ページ紹介。西荻窪で開かれているSM撮影会と紹介。
1981年(昭和56年)、[[セルフ出版]]の[[劇画ブッチャー]]12月号増刊『風俗最前線1981』([[末井昭]]編集)に[[GSG企画]]の『SM飼育室』の様子が3ページ紹介。西荻窪で開かれているSM撮影会と紹介。

2019年9月21日 (土) 17:38時点における版

GSG企画の舞台でのオサダ・ゼミナールのショー。1980年頃と思われる。マニア倶楽部2011年(平成23年)9月号、桜田伝次郎「アブノーマルな表現者」より。
[[[別冊SMファン]]1980年12月号に紹介されている西荻窪アトリエでの桜田信黒川まゆみ出演の『SM繩縛展覧会』

概要

桜田伝次郎が主宰したSMショーを定期開催していた団体。初期にはGSG企画の会場で長田英吉オサダ・ゼミナールの定例会を開催していたり、また、明智伝鬼がGSG企画のSMショーから舞台デビューしたことを考えると、昭和SMのSMショーの形成に重要な役割を果たした存在であることがわかる。

歴史

1976年(昭和51年)ー1980年(昭和55年)[注 1]桜田伝次郎は独自にSMショーを企画するGSG企画を設立。アトリエを荻窪駅の近く[注 2]とし、ここでGSG企画の最初のSMショーを開催。

1976年(昭和51年)ー1985年(昭和60年)、GSG企画が企画するSMショーが、GSG企画の西荻窪アトリエ、六本木のSAMM(賀山茂の店)、大塚のマイウェイ(本田富朗の店)、中野の中野クィーン(本田富朗の店)で開催される。桜田信村井弦が責め師として出演し、女優は黒川真由美など。後のAV監督鬼沢修二爆弾五郎という役名でマイウェイでのイベント「SMボンバー」に出演。[1]

1978年(昭和53年)頃?、GSG企画のSMイベントは会員制をとっており、この会員として後の明智伝鬼が応募してくる[注 3][2][1]

1980頃(昭和55年)?、当初桜田伝次郎は企画のみに専念しており、舞台には出演していない。GSG企画の西荻窪アトリエに出演していた桜田信が急病のため、代理として舞台に上がったのが最初のSMショーの出演。この時、桜田信をもじって桜田伝次郎という名前が誕生した[1]

1980年(昭和55年)2月29日、3月1日、西荻窪のGSG企画室にて『SM探求シリーズ 悦虐の炎』[3]

1980(昭和55年)7月、S&Mスナイパー7月号に「SM・飼育教室潜入ルポ」の記事。「GSGという集団が長田英吉の協力でショー」と。

1980(昭和55年)7月、月刊宝石の連載「MORE ERECT ZONE」7回目で「縛る!責める-SM飼育教室」の白黒グラビア。「ある劇団がSMの大家オサダ英吉先生を呼んでおこなった『SM飼育教室』のひとコマ」と。

1980(昭和55年)8月28日-30日、西荻窪のGSG企画室にて『SM飼育室II~SM/漂流・聖女の島』出演:桜田信[4]

観客であった明智伝鬼は、次第にショーを手伝うようになり、やがてショーが終わってから、会員の前でモデルを緊縛し、それを後の鬼沢修二が撮影するといった形が定借してくる[注 4]

1980(昭和55年)12月、別冊SMファン12月号に『密室に展開される緊縛劇』として西荻窪アトリエでの桜田信黒川まゆみ出演の『SM繩縛展覧会』のレポート。

1981年(昭和56年)、セルフ出版劇画ブッチャー12月号増刊『風俗最前線1981』(末井昭編集)にGSG企画の『SM飼育室』の様子が3ページ紹介。西荻窪で開かれているSM撮影会と紹介。

1981年(昭和56年)3月、西荻窪のGSG企画室にて『SM飼育室III-3』(演出:桜田伝次郎、出演:黒川まゆみ)。料金10,000円[5]

1981年(昭和56年)4月2-5日、西荻窪のGSG企画室にて『SM飼育室III-4』(演出:村井次郎)料金10,000円[5]

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 桜田伝次郎, 私信 to U, 2014.4.9
  2. 桜田伝次郎『ライブショーのM女たち』SMマニア1996年(平成8年)2月号〜7月号。
  3. ぴあ1988年(昭和55年)No.97
  4. ぴあ1988年(昭和55年)No.111
  5. 5.0 5.1 ぴあ1981年(昭和56年)No.126

注釈

  1. GSG企画の正確な発足時期は調査中。玉井敬友が上京した1976年(昭和51年)以降で、GSG企画劇画ブッチャーに紹介される1980年(昭和55年)の間であることは間違いない。 北原童夢明智伝鬼と戦後日本のSM史』in 『変態さんがいく』(別冊宝島編集部, 2000)では「1977年(昭和52年)」設立となっている。
  2. 杉並区西荻南2-19-10
  3. 「ムーンフォトクラブ」という会員制の会員になったことがきっかけで、やがてSM撮影の会の緊縛を担当するようになる。
  4. 桜田伝次郎の私信では、最初はあまり緊縛にこだわりのなかった明智伝鬼だが、このショーの終了後の緊縛イベントが始まり、めきめきと緊縛の腕を上げていったようだとのこと。

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