「SAMM」の版間の差分
提供:SMpedia
(→エピソード) |
編集の要約なし |
||
1行目: | 1行目: | ||
[[画像:SAMM2.jpg|350px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1981年(昭和56年)9月号に紹介された1981年(昭和56年)6月当時の[[SAMM]]。]] | [[画像:SAMM2.jpg|350px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1981年(昭和56年)9月号に紹介された1981年(昭和56年)6月当時の[[SAMM]]。]] | ||
[[画像:SAMM1.jpg|250px|thumbnail|[[別冊S&Mスナイパー]]1982年(昭和57年)12月号に紹介されたオープン2年目の[[SAMM]]。]] | [[画像:SAMM1.jpg|250px|thumbnail|[[別冊S&Mスナイパー]]1982年(昭和57年)12月号に紹介されたオープン2年目の[[SAMM]]。]] | ||
[[画像:SAMM3.jpg|250px|thumbnail|[[早乙女宏美]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309473709?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309473709 '''性の仕事師たち''']』([[河出書房新社]], 1998)で紹介されている「秘密の部屋[[SAMM]]」のパンフレット。サロンとしての[[SAMM]]閉店後のスタジオかもしれない。]] | |||
==概要== | ==概要== | ||
1981年(昭和56年)6月20日に麻布台にオープンした[[賀山茂]]のSMサロン。 | 1981年(昭和56年)6月20日に麻布台にオープンした[[賀山茂]]のSMサロン。 |
2019年7月23日 (火) 12:52時点における版
概要
1981年(昭和56年)6月20日に麻布台にオープンした賀山茂のSMサロン。
別名
所在地
港区麻布台1-4-3フェニックスビルB1F
歴史
1981年(昭和56年)6月20日、S&Mスナイパー1981年(昭和56年)9月号の記事にオープンの記事。経営者が賀山茂と明記[1]。
1981年(昭和56年)10月、花真衣が自縛ショーを始める[注 1]。
1982年(昭和57年)6月、SAMMの客の一人であった新東宝の専務が花真衣を誘い『濡れ肌刺青を縛る』(監督:渡辺護)を作る。
1982年(昭和57年)12月、別冊S&Mスナイパー1982年(昭和57年)12月号に紹介記事。長田英吉が写っている。
1983年(昭和58年)、にっかつ『団鬼六 蛇の穴』(鬼プロ製作)の冒頭の花真衣自縛ショーのシーンがSAMMで撮影。
1984年(昭和59年)4月13日、ナイトタイムスに取り上げられる。
1984年(昭和59年)6月16日、独自のSM劇団を組織し、旗揚げ公演[2]。
1984年(昭和59年)6月23日、SAMM3周年記念パーティー[2]。
エピソード
- 麻布台にあった俳優座の養成学校稽古場の跡地[3]。
- 雑誌記事には1981年(昭和56年)6月20日にオープンとあるが、賀山茂のHPなどでは1979年(昭和54年)から活動していたことを伺わせる。
- 長田英吉が定期的(週に何回か、8時と10時)にショーをやっていた模様。この頃、花真衣が長田英吉のショーパートナーとして参加[4]。
- 早乙女宏美、花真衣、末次富士子[5]、森美貴などが出演。
- 団鬼六、梶山季之、長田英吉、桜田伝次郎、明智伝鬼が集う[6]。
- SAMMはTV番組「キーハンター」の撮影によく使われていた[4]。
- 「前室がカウンターバーで、アラビアンナイト風の衣装をまとった、ややS風の女性がホステスをつとめる。」「ショーが始まると、会員だけが秘密のバーに入れるシステム。会員は入会金10万円で、一回遊ぶと8-10万円かかるので、相当のお金持ちしか会員になれない。」「当時としては珍しいカードキーがあり、それを差し込むと、一見壁のようなところが開き、奥の秘バーに。そこは広くて、舞台が中央に有り、丸テーブルがいくつも。洞窟の雰囲気。」[4]。
- 「牢獄の扉を開けてもらうと、まず、カウンターバーがあり、ショータイムが行われる8時になると奥のバーへ会員だけが入れるシステムでした。ショータイムは1日2回。あとはSMビデオがずーっと流れていました。ときおり、お客さん同士でプレイが始まることもありましたよ。 」[7]。
- 「年に1, 2回、パーティが行われていました。花真衣さんが出た回は今でもよく覚えています。初代葵マリさんも出てました。記憶に寄れば…。なぜなら、その後にスカがあったから。これは生まれてはじめてだったので、よーーーーく覚えています。パンにのせて食べていた人もおり、うわわーということで、奥の部屋には決して近寄りませんでした。」[7]。
- 「地下には中国人の料理人がいて、美味しい中華料理をサーブ。彼に教えてもらったクリーム煮を今でもお店で出している」[4]。