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2011年10月9日 (日) 20:56時点における版
概要
劇作家である鈴木泉三郎が伊藤晴雨をモデルとして、1921年(大正10年)に早稲田大学紀要(要確認)に発表した作品。責め場を含む戯曲で、戦前・戦後に上演されていた[1]。
歴史
1921年(大正10年)、早稲田大学紀要(要確認)に発表。
1923年(大正12年)、この年に白洲次郎が高橋義信、五月信子らと設立した先駆座が、戦前のいつか、火あぶりを上演した模様[2]。
1928年(昭和3年)2月、プラトン社から『火あぶり』が発刊。
戦前、飯塚与一郎[注 1]が、牛込呉松町の自宅で私演している[1]。
1940年代後半?、空気座が東横デパートの劇場で上演したある[3]。
1948年(昭和23年)、山岸康二がレビュー劇場『静岡歌舞伎座』で松浦泉三郎の「火焙り」を上演していたのを記憶しているが、これは鈴木泉三郎作品と同一かもしれない。
1953年(昭和28年)6月4日、伊藤晴雨が市川鈴本で『責めの劇団』の第1回公演で『火焙り』を上演[3][注 2]。
トピック
- 伊藤晴雨の没後、裏窓で企画された伊藤竹酔+大橋月皎+佐藤倫一郎+東喜代駒+高橋鐵による座談会[2]では、火あぶりが話題となっている。それによると、「高橋義信と五月信子のやった[注 3]」「大阪の角座で先生がかぶりつきで見ていた」「大橋月皎が喋ったねたを鈴木泉三郎が脚色した。伊藤晴雨の最初の夫人の竹夫は、伊藤晴雨が通っていたKという新聞記者の女中だった。Kさんの手が着いていたのをいただいた。それと一緒にたくさんの古書をもらう。」