「菊池寛」の版間の差分
提供:SMpedia
(→エピソード) |
(→略歴) |
||
17行目: | 17行目: | ||
1933年(昭和8年)、[[富永謙太郎]]が[[菊池寛]]の新聞小説「結婚街道」の挿絵でデビュー。 | 1933年(昭和8年)、[[富永謙太郎]]が[[菊池寛]]の新聞小説「結婚街道」の挿絵でデビュー。 | ||
1933年(昭和8年) | 1933年(昭和8年)3月、『'''話'''』(文藝春秋社)創刊。 | ||
1948年(昭和23年)、『'''話'''』の出版権を[[増永善吉]]に譲る<ref group="注">1949年(昭和24年)6月には『[[夫婦生活]]』と改題。</ref>。 | |||
1952年(昭和27年)、日劇5階『日劇小劇場』に[[日劇ミュージックホール]]がオープン。東宝社長であった[[小林一三]]の指示<ref group="注">小林は最初、エロ抜きを考えていたようだが、第1回越路吹雪公演が悲惨な入りだったために、次第にエロ路線に。</ref>。プロデュースは丸尾長顕<ref group="注">文芸作家で宝塚歌劇団の文芸部長だった。「エロチシズムは種族保護本能の発露」と主張。</ref>。越路吹雪を迎えて開幕<ref name="ex01">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4094060065?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4094060065 広岡敬一『戦後性風俗体系 わが女神たち』(朝日出版社, 2000)]</ref>。 | 1952年(昭和27年)、日劇5階『日劇小劇場』に[[日劇ミュージックホール]]がオープン。東宝社長であった[[小林一三]]の指示<ref group="注">小林は最初、エロ抜きを考えていたようだが、第1回越路吹雪公演が悲惨な入りだったために、次第にエロ路線に。</ref>。プロデュースは丸尾長顕<ref group="注">文芸作家で宝塚歌劇団の文芸部長だった。「エロチシズムは種族保護本能の発露」と主張。</ref>。越路吹雪を迎えて開幕<ref name="ex01">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4094060065?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4094060065 広岡敬一『戦後性風俗体系 わが女神たち』(朝日出版社, 2000)]</ref>。 |
2011年9月20日 (火) 12:00時点における版
きくち かん、1888年(明治21年)12月26日 - 1948年(昭和23年)3月6日
概要
小説家としても有名だが、雑誌関係の実業家としても活躍。特に、『夫婦生活』や東京三世社につながる雑誌を創刊していることに注目したい。
別名
略歴
1888年(明治21年)12月26日、香川県高松に生まれる。
1922年(大正11年)、春陽堂から『文藝春秋』創刊。
1930年(昭和5年)、文藝春秋社から『モダン日本』創刊[注 1]。
1932年(昭和7年)頃、『文藝春秋』の座談会で菊池寛が秦豊吉に小林一三を紹介[1]。
1933年(昭和8年)、富永謙太郎が菊池寛の新聞小説「結婚街道」の挿絵でデビュー。
1933年(昭和8年)3月、『話』(文藝春秋社)創刊。
1948年(昭和23年)、『話』の出版権を増永善吉に譲る[注 2]。
1952年(昭和27年)、日劇5階『日劇小劇場』に日劇ミュージックホールがオープン。東宝社長であった小林一三の指示[注 3]。プロデュースは丸尾長顕[注 4]。越路吹雪を迎えて開幕[2]。
エピソード
代表作
引用文献
- ↑ 『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)
- ↑ 広岡敬一『戦後性風俗体系 わが女神たち』(朝日出版社, 2000)
- ↑ 花田紀凱の戦後雑誌風雲録