「佐藤倫一郎」の版間の差分

提供:SMpedia
編集の要約なし
 
(同じ利用者による、間の3版が非表示)
5行目: 5行目:
R佐藤、佐藤倫一
R佐藤、佐藤倫一
==略歴==
==略歴==
1926年(昭和元年)頃、[[伊藤晴雨]]の下に1930年(昭和4年)ごろまで居候。その後も出入りする<ref name="Uramado1961_4">『'''晴雨画伯を偲んで'''』[[裏窓]]1961年(昭和36年)4月号, p176-183.</ref>。
1926年(昭和元年)頃、[[伊藤晴雨]]の下に1930年(昭和4年)ごろまで居候。その後も出入りする<ref name="Uramado1961_4">『'''晴雨画伯を偲んで'''』[[裏窓]]1961年(昭和36年)4月号, [http://nawa-art.com/etc/uramado/ura_196104/172.html p176].</ref>。
 
1927年(昭和2年)12月、[[伊藤晴雨]]の『いろは引・[[江戸と東京 風俗野史]] 第一巻』の印刷者として名が出ている。
 
1952年(昭和27年)春、[[高橋鐵]]邸にてあまとりあ社の座談会。出席者:[[高橋鐵]]、[[伊藤晴雨]]、[[佐藤倫一郎]]、[[清水三重三]]、[[サトーハチロー]]、[[坂本篤]]。この時、『'''[[論語通解]]'''』が[[高橋鐵]]の手に渡った模様<ref>[[安田義章]]『'''江戸を読む 別巻 伊藤晴雨・幻の秘画帖'''』([[二見書房]])</ref>


1927年(昭和2年)12月、[[伊藤晴雨]]の『いろは引・江戸と東京 風俗野史 第一巻』の印刷者として名が出ている。
==エピソード==
==エピソード==
*「キャバレーなどの内装設計家で、店の経営にも手を出す野心家として、その筋では知られた顔」<ref name="fukutomi">[[福富太郎]]『'''私の伊藤晴雨探求'''』in 『'''幻の責め絵師 伊藤晴雨'''』芸術新潮 1995年(平成7年)4月号, 新潮社</ref>
*「キャバレーなどの内装設計家で、店の経営にも手を出す野心家として、その筋では知られた顔」<ref name="fukutomi">[[福富太郎]]『'''私の伊藤晴雨探求'''』in 『'''幻の責め絵師 伊藤晴雨'''』芸術新潮 1995年(平成7年)4月号, 新潮社</ref>
==代表作==
==代表作==
*『'''[[伊藤晴雨]]画伯を偲んで'''』[[裏窓]]1961年(昭和36年)4月号(座談会:[[伊藤竹酔]]+[[大橋月皎]]+[[佐藤倫一郎]]+東喜代駒+[[高橋鐵]])
*『'''[[伊藤晴雨]]画伯を偲んで'''』[[裏窓]]1961年(昭和36年)4月号, [http://nawa-art.com/etc/uramado/ura_196104/172.html p176] (座談会:[[伊藤竹酔]]+[[大橋月皎]]+[[佐藤倫一郎]]+東喜代駒+[[高橋鐵]])
*『'''最後の絵業師・[[伊藤晴雨]]'''』芸術生活 1971年(昭和46年)3月号(座談会:石子順造+[[古今亭今輔]]+宮尾しげお+[[佐藤倫一郎|R・佐藤]])
*『'''最後の絵業師・[[伊藤晴雨]]'''』芸術生活 1971年(昭和46年)3月号(座談会:石子順造+[[古今亭今輔]]+宮尾しげお+[[佐藤倫一郎|R・佐藤]])
== 引用文献==
== 引用文献==

2023年9月26日 (火) 07:45時点における最新版

さとう りんいちろう、19??年(昭和??年)-

概要

戦前から伊藤晴雨の出版などを手伝っており、戦後は伊藤晴雨の収集に貢献した。本業は内装設計家。

別名

R佐藤、佐藤倫一

略歴

1926年(昭和元年)頃、伊藤晴雨の下に1930年(昭和4年)ごろまで居候。その後も出入りする[1]

1927年(昭和2年)12月、伊藤晴雨の『いろは引・江戸と東京 風俗野史 第一巻』の印刷者として名が出ている。

1952年(昭和27年)春、高橋鐵邸にてあまとりあ社の座談会。出席者:高橋鐵伊藤晴雨佐藤倫一郎清水三重三サトーハチロー坂本篤。この時、『論語通解』が高橋鐵の手に渡った模様[2]

エピソード

  • 「キャバレーなどの内装設計家で、店の経営にも手を出す野心家として、その筋では知られた顔」[3]

代表作

引用文献

  1. 晴雨画伯を偲んで裏窓1961年(昭和36年)4月号, p176.
  2. 安田義章江戸を読む 別巻 伊藤晴雨・幻の秘画帖』(二見書房)
  3. 福富太郎私の伊藤晴雨探求』in 『幻の責め絵師 伊藤晴雨』芸術新潮 1995年(平成7年)4月号, 新潮社

注釈


お役たちweb

つながり