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==[[SAMM]]のオープン時期について== | |||
雑誌には1981年(昭和56年)6月20日のオープンイベントの記事が残っているため、[[SAMM]]のオープンを1981年とする説もあるが、[[賀山茂]]自身はHPなどで1979年(昭和54年)から[[SAMM]]活動していたことを伺わせる書き方をしている。また、[[SAMM]]を客として何回か利用した[[松本靖夫]]は、それらの利用が確実に1981年(昭和56年)以前(1979年から1980年)であったと証言している<ref name="#ShishinMatsumoto202409"></ref>。SMペディアでは、[[SAMM]]のオープン時期については1979年(昭和54年)説を採用する。 | |||
==エピソード== | ==エピソード== | ||
*麻布台にあった俳優座の養成学校稽古場の跡地<ref name="hadashi11">[[賀山茂]]『'''裸足で歩いたSM道'''』[[S&Mスナイパー]]2005年(平成17年)11月号</ref>。 | |||
*初期の会員の[[松本靖夫]]によると「飯倉片町の有名なレストラン「ニコラス」の隣でしたね。ニコラスが日本で最初にピザを出した店です。」<ref name="#ShishinMatsumoto202409">[[松本靖夫]] 私信 to [[U]], 2024年9月</ref> | |||
*[[長田英吉]]が定期的(週に何回か、8時と10時)にショーをやっていた模様。この頃、[[花真衣]]が[[長田英吉]]のショーパートナーとして参加<ref name="Shishin">[[花真衣]]私信 to U, 2012.2.7</ref>。 | |||
*[[長田英吉]]、[[桜田伝次郎]]、[[明智伝鬼]]、[[根暗童子]]がSMショー。 | |||
*[[早乙女宏美]]、[[花真衣]]、[[末次富士子]]<ref name="hadashi3">[[賀山茂]]『'''裸足で歩いたSM道 特別編'''』[[S&Mスナイパー]]2006年(平成18年)5月号</ref>、[[森美貴]]などが出演。 | |||
*[[団鬼六]]、梶山季之が集う<ref name="HP">『'''賀山茂の世界'''』より(既に閉鎖されたHP)。</ref>。 | |||
*[[SAMM]]はTV番組「キーハンター」の撮影によく使われていた<ref name="Shishin"></ref>。 | |||
*「前室がカウンターバーで、アラビアンナイト風の衣装をまとった、ややS風の女性がホステスをつとめる。」「ショーが始まると、会員だけが秘密のバーに入れるシステム。会員は入会金10万円で、一回遊ぶと8-10万円かかるので、相当のお金持ちしか会員になれない。」「当時としては珍しいカードキーがあり、それを差し込むと、一見壁のようなところが開き、奥の秘バーに。そこは広くて、舞台が中央に有り、丸テーブルがいくつも。洞窟の雰囲気。」<ref name="Shishin"></ref>。 | |||
*「牢獄の扉を開けてもらうと、まず、カウンターバーがあり、ショータイムが行われる8時になると奥のバーへ会員だけが入れるシステムでした。ショータイムは1日2回。あとはSMビデオがずーっと流れていました。ときおり、お客さん同士でプレイが始まることもありましたよ。 」<ref name="MoriShishin">[[森美貴]]私信 to U, 2012.2.12</ref>。 | |||
*「年に1, 2回、パーティが行われていました。[[花真衣]]さんが出た回は今でもよく覚えています。初代[[葵マリ]]さんも出てました。記憶に寄れば…。なぜなら、その後にスカがあったから。これは生まれてはじめてだったので、よーーーーく覚えています。パンにのせて食べていた人もおり、うわわーということで、奥の部屋には決して近寄りませんでした。」<ref name="MoriShishin"></ref>。 | |||
*「地下には中国人の料理人がいて、美味しい中華料理をサーブ。彼に教えてもらったクリーム煮を今でもお店で出している」<ref name="Shishin"></ref>。 | |||
==ビデオ== | |||
*『'''女教師・縛り悶絶'''』([[みみずくビデオ]], 198?)(監修:[[SAMM]]、出演:岡美由紀、佐々木夏子) | |||
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画像:SAMM2.jpg|[[S&Mスナイパー]]1981年(昭和56年)9月号に紹介された1981年(昭和56年)6月当時の[[SAMM]] | |||
画像:SAMM198204a.png|[[SMファン]]1982年(昭和57年)4月号掲載の[[SAMM]]の広告 | |||
画像:SAMM1.jpg|[[別冊S&Mスナイパー]]1982年(昭和57年)12月号に紹介されたオープン2年目の[[SAMM]] | |||
画像:SAMM198305a.png|[[SMファン]]1983年(昭和58年)5月号掲載の[[SAMM]]の開店1周年記念の広告 | |||
画像:SAMM4.jpg|[[SMスピリッツ]]1984年(昭和59年)2月創刊号に紹介された[[SAMM]]。 | |||
画像:SAMM3.jpg|[[早乙女宏美]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4309473709?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4309473709 '''性の仕事師たち''']』([[河出書房新社]], 1998)で紹介されている「秘密の部屋[[SAMM]]」のパンフレット。サロンとしての[[SAMM]]閉店後のスタジオかもしれない | |||
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== 引用文献== | == 引用文献== | ||
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== お役たちweb== | == お役たちweb== | ||
==つながり== | ==つながり== | ||
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[[賀山茂]] | [[賀山茂]] | ||
[[花真衣とSAMMと長田英吉]] | |||
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概要
1979年(昭和54年)頃に麻布台にオープンした賀山茂のSMサロン。
別名
所在地
港区麻布台1-4-3フェニックスビルB1F
歴史
1979年(昭和54年)、この頃からSMサロンとしての営業をしていた模様(下記の「SAMMののオープン時期について」を参照されたし。
1981年(昭和56年)6月20日、S&Mスナイパー1981年(昭和56年)9月号の記事にオープンの記事。経営者が賀山茂と明記[1]。
1981年(昭和56年)10月、花真衣が自縛ショーを始める[注 1]。
1981年(昭和56年)10月23日、SAMMでの団鬼六主催『黒ミサ・パーティー』のレポートがS&Mスナイパー1982年(昭和57年)1月号に。
1982年(昭和57年)6月、SAMMの客の一人であった新東宝の専務が花真衣を誘い『濡れ肌刺青を縛る』(監督:渡辺護)を作る。
1982年(昭和57年)12月、別冊S&Mスナイパー1982年(昭和57年)12月号に紹介記事。長田英吉が写っている。
1983年(昭和58年)、にっかつ『団鬼六 蛇の穴』(鬼プロ製作)の冒頭の花真衣自縛ショーのシーンがSAMMで撮影。
1984年(昭和59年)4月13日、ナイトタイムスに取り上げられる。
1984年(昭和59年)6月16日、独自のSM劇団を組織し、旗揚げ公演[2]。
1984年(昭和59年)6月23日、SAMM3周年記念パーティー[2]。
SAMMのオープン時期について
雑誌には1981年(昭和56年)6月20日のオープンイベントの記事が残っているため、SAMMのオープンを1981年とする説もあるが、賀山茂自身はHPなどで1979年(昭和54年)からSAMM活動していたことを伺わせる書き方をしている。また、SAMMを客として何回か利用した松本靖夫は、それらの利用が確実に1981年(昭和56年)以前(1979年から1980年)であったと証言している[3]。SMペディアでは、SAMMのオープン時期については1979年(昭和54年)説を採用する。
エピソード
- 麻布台にあった俳優座の養成学校稽古場の跡地[4]。
- 初期の会員の松本靖夫によると「飯倉片町の有名なレストラン「ニコラス」の隣でしたね。ニコラスが日本で最初にピザを出した店です。」[3]
- 長田英吉が定期的(週に何回か、8時と10時)にショーをやっていた模様。この頃、花真衣が長田英吉のショーパートナーとして参加[5]。
- 長田英吉、桜田伝次郎、明智伝鬼、根暗童子がSMショー。
- 早乙女宏美、花真衣、末次富士子[6]、森美貴などが出演。
- 団鬼六、梶山季之が集う[7]。
- SAMMはTV番組「キーハンター」の撮影によく使われていた[5]。
- 「前室がカウンターバーで、アラビアンナイト風の衣装をまとった、ややS風の女性がホステスをつとめる。」「ショーが始まると、会員だけが秘密のバーに入れるシステム。会員は入会金10万円で、一回遊ぶと8-10万円かかるので、相当のお金持ちしか会員になれない。」「当時としては珍しいカードキーがあり、それを差し込むと、一見壁のようなところが開き、奥の秘バーに。そこは広くて、舞台が中央に有り、丸テーブルがいくつも。洞窟の雰囲気。」[5]。
- 「牢獄の扉を開けてもらうと、まず、カウンターバーがあり、ショータイムが行われる8時になると奥のバーへ会員だけが入れるシステムでした。ショータイムは1日2回。あとはSMビデオがずーっと流れていました。ときおり、お客さん同士でプレイが始まることもありましたよ。 」[8]。
- 「年に1, 2回、パーティが行われていました。花真衣さんが出た回は今でもよく覚えています。初代葵マリさんも出てました。記憶に寄れば…。なぜなら、その後にスカがあったから。これは生まれてはじめてだったので、よーーーーく覚えています。パンにのせて食べていた人もおり、うわわーということで、奥の部屋には決して近寄りませんでした。」[8]。
- 「地下には中国人の料理人がいて、美味しい中華料理をサーブ。彼に教えてもらったクリーム煮を今でもお店で出している」[5]。
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別冊S&Mスナイパー1982年(昭和57年)12月号に紹介されたオープン2年目のSAMM