「浅草ロック座」の版間の差分

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==概要==
==概要==
[[東洋興業]]系のストリップ劇場。
[[東洋興業]]系の[[ストリップ劇場]]。
==別名==
==別名==


==所在地==
==所在地==
東京都 台東区 浅草2-10-12
==歴史==
==歴史==
1947年(昭和22年)8月、国華興業<ref group="注">のちに[[東洋興業]]の初代社長となる松倉宇七は国華興業の常務取締役</ref>の経営で「[[浅草ロック座]]」(旧万盛座)が開館<ref group="注">7月説も。</ref><ref name="saizyo">[http://saijo-noboru.blog.so-net.ne.jp/2012-07-09-1 西条昇ブログ お笑いエンタメ人生!]</ref>。
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1948年(昭和23年)2月、[[浅草ロック座]]でのハイライト・ショー(矢野英二主宰)公演「南国の処女」で[[メリー松原]]が浅草デビュー<ref name="inoue">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4890361235?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4890361235 井上ひさし『浅草フランス座の時間』(文春ネスコ, 2001)]</ref>。
1948年(昭和23年)2月、[[浅草ロック座]]でのハイライト・ショー(矢野英二主宰)公演「南国の処女」で[[メリー松原]]が浅草デビュー<ref name="inoue">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4890361235?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4890361235 井上ひさし『浅草フランス座の時間』(文春ネスコ, 2001)]</ref>。
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1948年(昭和23年)6月前後、「朱里みさを<ref group="注">朱里エイコの母</ref>とパルナスショウ」の「奴隷市場」にグレース松原。[[浅草ロック座]]、大都劇場、池袋文化劇場で<ref name="seidan">[[小沢昭一]]、 [[深井俊彦]]、[[中谷陽]]「消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史」新劇、1973年(昭和48年)9月号</ref>。
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1983年(昭和58年)3月、一時閉場。
2014年(平成26年)10月15日、運営会社である斉藤観光の経営が悪化し倒産騒ぎ。東興業が引き続き経営維持。
2020年(令和2年)2月20日、浅草ロック座の[[斎藤恒久]]会長が永眠。


==エピソード==
==エピソード==
*[[奈良あけみ]]のデビューは[[浅草ロック座]]。
*[[高見緋紗子]]は[[浅草ロック座]]から[[日劇ミュージックホール]]へ。
*[[村田凡二郎]]が振付をおこなっていた。
*[[齋藤智恵子]]会長。
*1971年頃の「六区興行街には、[[フランス座]]、[[カジノ座]]、[[ロック座]]、[[浅草座]]の計四館がひしめき合っていた<ref name="#12588407839">[https://ameblo.jp/cobanobu/entry-12588407839.html cobanobuのブログ「浅草ストリップ小史」]</ref>。」
*(1970年代初め)「[[船橋淀君]]の舞台での華麗なバックオープン・スタイルで一世を風靡した[[宝由加里]]が、いつの間にか[[ロック座]]の座長として浅草に住み付き、[[宝京子]]ら宝姉妹は欧州公演に旅立ち、そのお土産として、本場フランスから「プッシー・キャッツ一座」を先陣として二度の外人ショーの導入に成功し、マスコミの脚光を浴びた<ref name="#12588407839"></ref>。」
*(浅草ロック座は)「イレブンPM年末恒例の「紅白ストリップ合戦」や鶴光の「鶯谷ミュージックホール」の発売記念の会場になった<ref name="#12588407839"></ref>。」


== 引用文献==
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[[ストリップ劇場]]
 
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概要

東洋興業系のストリップ劇場

別名

所在地

東京都 台東区 浅草2-10-12

歴史

1947年(昭和22年)8月、国華興業[注 1]の経営で「浅草ロック座」(旧万盛座)が開館[注 2][1]

1948年(昭和23年)2月、浅草ロック座でのハイライト・ショー(矢野英二主宰)公演「南国の処女」でメリー松原が浅草デビュー[2]

1948年(昭和23年)5月、伴淳三郎を座長とした専属劇団「ショウ東京ロック」が発足[1]

1948年(昭和23年)6月前後、「朱里みさを[注 3]とパルナスショウ」の「奴隷市場」にグレース松原。浅草ロック座、大都劇場、池袋文化劇場で[3]

1950年(昭和25年)4月、同年から出入りしていた永井荷風による書き下ろし「渡り鳥いつかへる」が上演[1]

1951年(昭和26年)年頃、座長格は伴淳三郎から佐山俊二に移る[1]

1960年(昭和35年)頃、深見千三郎が座長格。

1971年(昭和46年)頃、東洋興業が実質的に浅草ロック座の経営から手を引く。深見千三郎浅草フランス座に移る。

1983年(昭和58年)3月、一時閉場。

2014年(平成26年)10月15日、運営会社である斉藤観光の経営が悪化し倒産騒ぎ。東興業が引き続き経営維持。

2020年(令和2年)2月20日、浅草ロック座の斎藤恒久会長が永眠。

エピソード

引用文献

注釈

  1. のちに東洋興業の初代社長となる松倉宇七は国華興業の常務取締役
  2. 7月説も。
  3. 朱里エイコの母

お役たちweb

つながり

ストリップ劇場