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*小沢昭一、 [[深井俊彦]]、中谷陽『消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史』(新劇、1973年(昭和48年)9月号) | *小沢昭一、 [[深井俊彦]]、中谷陽『消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史』(新劇、1973年(昭和48年)9月号) |
2011年9月27日 (火) 09:05時点における版
ふかい としひこ、1919年(大正8年)頃- 1970年代後半[注 1]
概要
演出家。振り付け師。文筆家。戦前の軽演劇の戯作者を経て、戦後はストリップ界で作家、演出家として活躍する。ストリップでの「花魁ショー」や「全ストショー」の仕掛け人でもある。須磨利之、濡木痴夢男との親交があり、両氏の関わるSM雑誌へ、踊り子をモデルとして斡旋していた。田中小実昌『イザベラね』(1981, 中央公論社)の「大内先生」は深井俊彦をモデルとしている。1970年代にはたこ八郎が経営していたたこ部屋」の2階に住んでいた。
別名
Toshihiko Fukai, 北野竜一
略歴
1940年頃、「太平洋戦争の前から浅草の軽演劇の劇場にいて、その劇場がストリップ劇場になり」[1]
1940年(昭和15年)、浅草常磐座の「笑いの王国」に参加[2]。
1952年(昭和27年)2月21日、大阪新世界の「温泉劇場」で『籠釣瓶女の乳煙(吉原百人斬)』を公演。花魁ショーの始まり[3]。
1954年(昭和29年)、わいせつ罪で逮捕。求刑4ヶ月のところを罰金刑2万円[注 2][2]。
1957年(昭和32年)、「全ストショー」を百万ドルショーという一座にやらせる[注 3][2]。
1965年(昭和40年)頃、浅草の松竹演芸場でたこ八郎と知り合う[4]。
1966年(昭和41年)、『体当りマンハント旅行』(糸文弘監督、原作:豊原路子、横浜マコ、南条ユカ、オスカープロ)の製作に関与。田中小実昌がトルコ風呂のマネージャー役で出演。制作は千中ミュージックの社長[5]。
1972年(昭和47年)頃、富士市にあるストリップ小屋の雇われ社長[2]。
1973年(昭和48年)頃、新宿「たこ部屋」の二階に30歳年下の愛妻と住んでいるとの記載がある[6]。たこ部屋については、濡木痴夢男が「井上荘という木造二階建てのアパートの一階・・・たこ八郎はその二階の四畳半の部屋で寝起きしていた。このとき、深井俊彦は、新宿百人町の井上荘、つまり「たこ部屋」の二階のアパートの一室に寝起きしていた。そこは、たこ八郎のとなりの部屋である。」と記述している[7]
エピソード
- 須磨が濡木に深井を紹介する。新宿フランス座において。出会いから数年後、濡木は深井俊彦一座の座付き作者となって、東海道の旅興行までついていく[7]。
- 田中小実昌『イザベラね』(1981, 中央公論社)は、深井俊彦にまつわる小説である。小説中深井は「大内先生」として登場する。
代表作
- 北野竜一『可愛い女 飼育』(裏窓、1962年1月号)[注 4]
- 北野竜一『ある「純粋」な関係』(サスペンスマガジン、1965年4月号)[注 5]
- 深井俊彦『ピンク実演の”あしたのジョー”?太古八郎』(実話情報12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集、1970年(昭和45年)12月, p144-148)
- 深井俊彦『ああストリップ人生』(プレイ情報、1971年(昭和46年)3月号)
- 深井俊彦「続・舞台の上のマゾ女優」(SMキング、1973年(昭和48年)5月号)
- 小沢昭一、 深井俊彦、中谷陽『消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史』(新劇、1973年(昭和48年)9月号)
- 深井俊彦「残酷ショウ裏話」(SMキング、1974年(昭和49年)2月号)
- 深井俊彦、正邦乙彦、中谷陽、林征二『四人のエロ事師が開陳する「ヒモ能力」くらべ』(週刊ポスト, 1974年(昭和49年)5月24日号)
参考資料
- ↑ 田中小実昌『イザベラね』(1981, 中央公論社)
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 『四人のエロ事師が開陳する「ヒモ能力」くらべ』週刊ポスト 1974年(昭和49年)5月24日号, p56-p62.
- ↑ 深井俊彦『歌舞伎ストリップ・バーレスク:籠釣瓶女の乳煙(吉原百人斬)』新劇、1973年9月号
- ↑ 深井俊彦『ピンク実演の”あしたのジョー”?太古八郎』(実話情報12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集、1970年(昭和45年)12月, p144-148
- ↑ 田中小実昌データベース
- ↑ 深井俊彦「続・舞台の上のマゾ女優」(SMキング、1973年(昭和48年)5月号, p260-261)
- ↑ 7.0 7.1 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十七回
注釈
- ↑ 田中小実昌が『イザベラね』で「おれより6つぐらい年がおおいだけだ」と記述しているのをもとに逆算して誕生年を推測している。1974年には記事が出ており、1981年発刊の『イザベラね』で「死んで3年も経った」とあるので、1975-1978位に亡くなったと予想できる。
- ↑ 「”マッチ一本百円”という寸劇で、コメディアンがスカートをまくってマッチで覗くやつとか、シュミーズ1枚の女と上半身裸の男が、ジルバを踊って体をくっつけるだけ」
- ↑ 「後悔してますよ。だって見せればもう、のこるは特だしショーしかないからね」
- ↑ この作品を最初として北野竜一の名前で裏窓に1965年まで7作を書いている。
- ↑ この作品を最初として北野竜一の名前でサスペンスマガジンに1969年まで10作を書いている。