「浅草ロック座」の版間の差分

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1948年(昭和23年)6月前後、「朱里みさを<ref group="注">朱里エイコの母</ref>とパルナスショウ」の「奴隷市場」にグレース松原。[[浅草ロック座]]、大都劇場、池袋文化劇場で<ref name="seidan">[[小沢昭一]]、 [[深井俊彦]]、[[中谷陽]]「消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史」新劇、1973年(昭和48年)9月号</ref>。
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1971年(昭和46年)頃、[[東洋興業]]が実質的に[[浅草ロック座]]の経営から手を引く。[[深見千三郎]]も[[浅草フランス座]]に移る。


==エピソード==
==エピソード==

2014年8月1日 (金) 08:23時点における版

概要

東洋興業系のストリップ劇場。

別名

所在地

歴史

1947年(昭和22年)8月、国華興業[注 1]の経営で「浅草ロック座」(旧万盛座)が開館[注 2][1]

1948年(昭和23年)2月、浅草ロック座でのハイライト・ショー(矢野英二主宰)公演「南国の処女」でメリー松原が浅草デビュー[2]

1948年(昭和23年)5月、伴淳三郎を座長とした専属劇団「ショウ東京ロック」が発足[1]

1948年(昭和23年)6月前後、「朱里みさを[注 3]とパルナスショウ」の「奴隷市場」にグレース松原。浅草ロック座、大都劇場、池袋文化劇場で[3]

1950年(昭和25年)4月、同年から出入りしていた永井荷風による書き下ろし「渡り鳥いつかへる」が上演[1]

1951年(昭和26年)年頃、座長格は伴淳三郎から佐山俊二に移る[1]

1960年(昭和35年)頃、深見千三郎が座長格。

1971年(昭和46年)頃、東洋興業が実質的に浅草ロック座の経営から手を引く。深見千三郎浅草フランス座に移る。

エピソード

引用文献

注釈

  1. のちに東洋興業の初代社長となる松倉宇七は国華興業の常務取締役
  2. 7月説も。
  3. 朱里エイコの母

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つながり