「正邦乙彦」の版間の差分

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==代表作==
==代表作==
 
*[[田中小実昌]]、吉村平吉、メリー松原、[[正邦乙彦]]、樋口四郎『われら線中ストリップ派』in 「'''カストリ復刻版'''」[[日本出版社]], 1975年(昭和50年)


==参考資料==
==参考資料==

2011年4月17日 (日) 18:15時点における版

正邦乙彦

まさくに おとひこ、19

活動内容

映画俳優。軽演劇役者。ストリップ演出家。

別名

略歴

1948年(昭和23年)3月5日、浅草「常盤座」でヘレン滝の「デカメロン・ショー」を演出。ここで「ストリップ・ショウ」という名称を使い出す[1]

1950年(昭和25年)、「常盤座」で泉都(せんと)ルイスの穴埋めとしてジプシー・ローズ・マリー(志水敏子, 1935-1967)を使う。「常盤座」から「横浜セントラル」「新宿セントラル」と広げる。「新宿セントラル」の『情熱のサロメ』で額縁の中から飛び出して踊り出す。続いて浅草「公園劇場」での『女のデット・エンド』で注目[2]

1952年(昭和27年)、「東劇バーレスク」のオープニングの『アラビアンナイト』で初披露したグラインドでジプシーの地位は確立[2]。1分間に60回のグラインド。村松梢風、林房雄、舟橋聖一がファン[3]。やがてこのグラインドは猥雑に当たると規制される。

1953年(昭和28年)、「東劇バーレスク」閉鎖[2]

1954年(昭和29年)、ジプシー・ローズと地方巡業に出る。前後して東京ではストリップ関係者の検挙が相次ぐ。ジプシーのグラインドも封印。丸尾長顕の誘いで日劇ミュージックホールと契約[2]

1967年(昭和42年)、ジプシー・ローズ事故死。

エピソード

  • 元ダンサーのヘレン滝をスカウト[1]
  • ジプシーローズの主人。
  • 「バタフライ」の命名者[1]

代表作

参考資料

  1. 1.0 1.1 1.2 井上ひさし『浅草フランス座の時間』(文春ネスコ, 2001)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 正邦乙彦『最後のストリップティーズ』in 「カストリ復刻版」日本出版社, 1975年(昭和50年)
  3. 広岡敬一『戦後性風俗体系 わが女神たち』(朝日出版社, 2000)

注釈


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つながり

淀橋太郎 深井俊彦 田中小実昌