トーク:解語の花
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- 星野小麿自身は緊縛には興味がなかったが、1971年(昭和46年)に芳賀書店から出た篠山紀信の『緊縛写真大全』などに興味をもっていた枷井克哉などの数名の会員が強く希望したために、『KPC』に「緊縛部門」を組み込むことを決意[1]。
- 春原悠理が1976年頃に解語の花のモデルとして参加[1]。
- 濡木痴夢男は、星野小麿が枷井克哉の作品を「個性が強すぎる」と評したことに不満だったようだ[1]。
- 最後の方は、参加者も数名となっていた。その中に枷井克哉、須賀忠、不二秋夫らの熱心な緊縛ファンが入っており、後の「ゆたか編集室」や「緊美研」発足のきっかけとなる[1]。
- 『撮影同行記』の中で『縛り方教室』と出てくるのは、この「解語の花」のことである。
1977年(昭和52年)4月11日、濡木痴夢男は枷井克哉に頼まれて、森れい子をモデルにしたプライベート撮影の緊縛[1]。