本木荘二郎
もとき そうじろう、1914年(大正3年)6月8日-1977年(昭和52年)5月21日は、黒澤明作品の多くのプロデューサーを担当した後、ピンク映画の監督となった。
活動内容
映画監督。ディレクター。
別名
Sojiro Motoki、高木丈夫、岸本恵一、品川照二、渋谷民三、小針二郎、藤本潤三
略歴
1914年(大正3年)6月8日、東京新橋に生まれる。実父は洋服の裏地の問屋[1]。
1930年代、早稲田大学文学部仏文科卒業[1]。NHKのアナウンサーに採用[2]。
1938年(昭和13年)、東宝株式会社入社。
1943年(昭和18年)、山本嘉次郎の助監督。
1944年(昭和19年)12年、女優岩田ふさえと知り合い結婚。婚姻届は昭和21年[1]。
1948年(昭和23年)8月、東宝株式会社依頼退職。
1953年(昭和28年)、浜田百合子と再婚。
1957年(昭和32年)、「どん底」製作中契約解除。黒澤明と決別[注 1]。
1962年(昭和37年)11月、『肉体自由貿易』(国新映画)を制作。この作品をピンク映画第1号とする説もある[注 2][3]。
1965年(昭和40年)、テレビ放送社[注 3]でダビング作業中に山邊信夫と知り合う[注 4][1]。
1966年(昭和41年)1月、ヤマベプロでの初監督作品と思われる『裸の復讐』企画:山邊信夫、製作:高木丈夫(=本木)監督:高木+松原次郎、原作が花巻京太郎(=団)の「黒猫作戦」。
1966年(昭和41年)、ヤマベプロ作品『汚辱の女』を監督(高木丈夫の名前)。脚色は黒岩松次郎でたこ八郎が出演している。
1967年(昭和42年)8月、寿プロの『処女のためいき』を高木丈夫の名前で監督。谷ナオミが出演している。
1971年(昭和46年)頃、団鬼六の鬼プロ制作の映画を監督。助監督として鬼プロの杉浦則夫、田代幸三があたる[4]。
1977年(昭和52年)5月21日、持病の喘息により北新宿のアパート第2淀橋荘で病死。遺体は本人の希望で学術解剖に。
エピソード
- 田中友幸、藤本真澄と共に東宝三大プロデューサーと言われていた[5]。
- 本木の低予算映画は、当時テレビドラマが30分番組を4日間、三〇〇万円という低予算で作り始めており、それを倣ったといわれる[5]。
- 男優の関多加志、佐野日出男等が本木のアパートに居候していた[5]。関多加志のアパート(「第2淀橋荘」)に本木が居候していたという記述もある[2]。
代表作
- 黒澤明の「酔いどれ天使」、「静かなる決闘」、「野良犬」、「醜聞」、「羅生門」、「白痴」、「生きる」、「七人の侍」などの制作。
- 『裸の復讐』(ヤマベプロ、監督:高木丈夫、松原次郎、原作:花巻京太郎 「黒猫作戦」, 1966)
- 『魔性の人妻』(ヤマベプロ、監督:高木丈夫、松原次郎、脚本:花巻京太郎 , 1966)
- 『女の奥』(ヤマベプロ、監督:高木丈夫 , 1966)
- 『花と蛇より 骨まで縛れ』(ヤマベプロ、監督:高木丈夫 , 1966)
- 『汚辱の女』(ヤマベプロ、監督:高木丈夫、岸信太郎 , 脚色:黒岩松次郎, 1966)
- 『蛇淫の肌』(ヤマベプロ、監督:高木丈夫 , 1966)