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2019年12月2日 (月) 08:12時点における版
やまべ のぶお、1933年(昭和8年)[1] - 。ピンク映画のプロデューサー。
概要
映画監督。ディレクター。ピンク映画プロダクション「ヤマベプロ」の社長を経てTV関係で活躍。谷ナオミはピンク映画デビュー後まもなくヤマベプロの所属となり、その後、1970年代中頃まで山邊信雄が谷ナオミのマネージャーであった。また、団鬼六は1960年代後半、ヤマベプロの専属脚本家として多くのピンク映画脚本を書いた。団鬼六、谷ナオミ、そして東てる美の育ての親として、昭和SM文化の形成に深く関与している。山邊信雄自身にSMの趣味があったという記録はない。
別名
略歴
1933年(昭和8年)、浅草生まれ[1]。
1950年代、山本薩夫、今井正らの独立系の監督の製作に関わる[1][注 2]。
1958年(昭和33年)頃、西村俊一[注 3]に誘われ「宣弘社」に入社。『月光仮面』などの音響を担当[注 4][1]。
1963年(昭和37年)頃、テレビ放送社に入社。『どら猫大将』のアテレコをプロデュース。声優は谷幹一、三遊亭歌奴、立川談志、長門勇など[注 5]。
1965年(昭和40年)、テレビ放送社に勤めていた時、団鬼六が入社してくる[2][注 6]。
1965年(昭和40年)頃、たこ八郎をアフレコの声優として使う[注 7][1]。
1965年(昭和40年)、「轍プロ」に移籍という記述もある[3]。
1965年(昭和40年)、団鬼六と共に『花と蛇』を制作。これがヤマベプロの第一回作品となる。詳細は1965年版「花と蛇」参照。岸信太郎の名で自ら監督。
1965年(昭和40年)頃、テレビ放送社でダビング作業中に本木荘二郎と知り合う[注 8][4]。
1966年(昭和41年)頃、テレビ放送社が倒産[1][注 9]。
1968年(昭和43年)頃、週刊大衆の取材で利用した新宿のクラブで、ホステスをしていた谷ナオミを見つて、ヤマベプロに入れる[1][注 10]。
1968年(昭和43年)11月5日、渋谷地球座・銀座地球座にて『ブルーフィルムの女』全3景。作:団鬼六、演出:岸信太郎、製作:ヤマベプロ、出演:谷ナオミ、山石映子、太古八郎、南浩二。銀座地球座にて『女子学生の肌を狙え』全4景。作:団鬼六、演出:岸信太郎、製作:ヤマベプロ、出演:水咲陽子、青木マリ、坂本昭、渡辺充雄[5]。
1969年(昭和44年)頃、大瀬康一とTV制作会社を始める[注 11][1]。
1971年(昭和46年)頃、谷ナオミと代官山でスナックを始める[1][6][注 12]。
1974年(昭和49年)、にっかつからの依頼で谷ナオミを『花と蛇』に出演。緊縛は浦戸宏。
1974年(昭和49年)、東てる美が劇団ナオミで初舞台。
1974年(昭和49年)6月、劇団ナオミ[注 13]が未成年者の山谷ますみ[注 14]を雇用していた件で谷ナオミ、山邊信雄が逮捕。起訴猶予処分[7]。
1976年(昭和51年)、「東てる美劇団」設立。
1985年(昭和60年)、東てる美と入籍。
1990年代、MK企画でTV製作の仕事[1]。
1995年(平成7年)6月、東てる美と離婚。
1995年(平成7年)、フラッシュワンの設立[1]。
1996年(平成8年)頃、花井紫と知り合う[注 15][1]。
1997年(平成9年)、Vシネマ『団鬼六 女教師・愛の檻』の企画。
エピソード
- 「テレビ放送社」は麹町にあった[1]。
- 「テレビ放送社」では『恐妻天国』『どら猫大将』『ガンビーくんの冒険』や深夜映画など週に5本ぐらいかかえていた[1]。
- 谷幹一、関敬六、渥美清、立川談志と親しくしていた[1]。
- 団鬼六は山邊信雄の後に入社してきた[1]。
- 奇譚クラブ1966年(昭和41年)2月号『鬼六談義 日本三文映画』に団鬼六がまだテレビ放送にいるらしき記述がある。ここにも記されているが、依頼主であるTBSが山邊や団がピンク映画を製作していることを問題視していた。山邊信雄によると、一時、そのことでテレビ放送を退社したが、担当番組の視聴率が下がったために、よりよい条件で再雇用されたとある[1]。
- 『花と蛇』の最初の映画作品となる1965年版『花と蛇』(ヤマベプロ, 1965)を制作・監督。
- 谷ナオミの元内縁関係、マネージャーでもある。後に、東てる美と結婚。
代表作
ピンク映画60年代
ヤマベプロにリスト化。
その後
- 『団鬼六 女教師・肉の復讐[注 16]』(ジャパンホームビデオ, 1995) (製作:フラッシュワン、企画:山邊信雄 スワンシステムプロダクツ、プロデューサー:大谷弘、原作:団鬼六、脚本:石倉保志 団鬼六、緊縛指導: 長池士、監督:田嶋夏樹、出演:野本美穂 城山凛 賀川黒之助 百々地葉子 谷本賀枝 花井紫 牧山ちはる 星野ありな 早乙女宏美 谷幹一 谷川みゆき)
- 『団鬼六 女教師・愛の檻[注 17]』(ジャパンホームビデオ, 1997.5.23) (製作:フラッシュワン、企画:山邊信雄、原作:団鬼六、脚本:石森史郎、緊縛指導: 長池士、監督:南部英夫、出演:谷川みゆき 小林哲也 七瀬みい 浜田東一郎 長池士[注 18] 間壁裕美 増田英治 久須美欽一 穂積隆信)
エッセイ
- 岸信太郎『団さんの苦しんだ時代』(「平岡正明・岡庭昇『団鬼六・暗黒文学の世界』(三一書房, 1982))
- 山邊信雄『団さんのシナリオライター時代』(『花は紅―団鬼六の世界』(幻冬舎, 1999))
参考資料
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 山邊信雄氏へのインタビュー by U (2010.5.2)
- ↑ 幻冬舎『花は紅―団鬼六の世界』(幻冬舎, 1999)
- ↑ 二階堂卓也『ピンク映画史: 欲望のむきだし』(彩流社, 2014)
- ↑ 藤川黎一『虹の橋 黒澤明と本木荘二郎』(虹プロモーション、1984)
- ↑ 【西条昇のピンク実演芝居コレクション】昭和43年のピンク実演の新聞広告
- ↑ 6.0 6.1 団鬼六『蛇のみちは―団鬼六自伝』(幻冬舎, 1997)
- ↑ 『女優谷ナオミ:伝説のSM女王』西日本スポーツに1999年(平成11年)2月2日から10月ぐらいまで連載
注釈
- ↑ ネット上には「信夫」表記がいくつか見られるが、山邊信雄氏自身は、「信夫」という変名を用いた認識はない(私信 to U, 2011)。ネットに転記する際の誤植なのか、実際に「信夫」で記録が残っているのかは不明。
- ↑ 山本と3本、今井と4本仕事をする。
- ↑ 1928年(昭和3年)生まれのプロデューサー。『月光仮面』『隠密剣士』『水戸黄門』『大岡越前』で有名。1957年(昭和32年)、「宣弘社」がテレビ番組『月光仮面』を企画した際に、原作者である川内康範が、宣弘社の小林利雄社長に西村を紹介。年末に宣弘社に入社。
- ↑ 『遊星王子』(1958.11-1959.9)から『隠密剣士』(1962.10.7ー)の頃までいた。他には『月光仮面』『快傑ハリマオ』『ジャガーの眼』など。『実写版アトム』(1959年3月7日)の音楽も担当
- ↑ 芸能人を声優とする流れのはしり。
- ↑ 団の自伝には、しばしば山邊の方が後に入社してきたような記述がある。
- ↑ 「10チャンネルのディレクターが使ってくれと紹介してきた」と記憶。3年ぐらいヤマベプロにいた。
- ↑ しばらくして、「団鬼六を使って『花と蛇』を撮った年・・・・目黒の長崎丸のマンションに本木が来て・・・(映画を撮らして欲しいというので)2つ返事で撮ってもらった。」とある。
- ↑ 山邊信雄は正確にはテレビ放送社への入社日と倒産日を記憶していない。ただ「3年半」いたことについては記憶がはっきりしている。『どら猫大将』は放送当初から関わっていたのは確実なので、1963年の10月以前に入社していたようである。また、団鬼六は奇譚クラブ1966年(昭和41年)2月号『鬼六談義 日本三文映画』でテレビ放送社と思われる事務所を書いているので、倒産したのは1966年以降と思われる。山邊信雄はテレビ放送社での仕事と平行してピンク映画製作を行っていた。
- ↑ 谷ナオミの記憶と不一致なので注意が必要。谷ナオミはMAGプロのピンハネを知り、ヤマベプロに移る、と述べている(西スポ)。
- ↑ OT企画?大瀬康一は1937年10月27日うまれで1958年頃、「宣弘社」で『月光仮面』を製作していた。「宣弘社」つながりである。
- ↑ 『蛇のみちは―団鬼六自伝』では「小料理屋」となっている。
- ↑ 「劇団ナオミ」がいつ頃設立されたのか不明。谷ナオミは「ヤマベプロ時代に作った。劇団のマネージャーは山邊信雄で、たこ八郎、北海熊(=レオナルド熊)などが出ていた。」と述べているのでかなり古いと思われる。
- ↑ 当時16才。年齢を偽って入団していた。「いろ包丁」「パンティ大作戦」「性の完全犯罪」に出演。
- ↑ 花井紫は現在の夫人。1985年に木下由里子として歌手デビューし、TV女優などを経て、現在劇団「は~とふる・はんど」を主宰。2011年に山辺ユリコと改名。
- ↑ Vシネマとして製作されたが、後に『新任教師 野本美穂 恥肉の裏授業』(フラッシュ・ワン, (2003)としてキネコ映画化された。
- ↑ Vシネマとして製作されたが、後に『谷川みゆき 高校教師 -汚す!-』(フラッシュ・ワン, (2003)としてキネコ映画化された。映画版ではスタッフが変更されている。
- ↑ 運転手兼調教師役