「小悪征夫」の版間の差分
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2015年9月6日 (日) 10:52時点における版
こあく ゆきお、1943年(昭和18年)-。1943年(昭和18年)生まれの絵師。志村立美の門下生。団鬼六とのコンビ作多い。サスペンスマガジン、SMファン、SMキング、S&Mスナイパーなど多数。
概要
絵師。挿絵画家。劇画家。団鬼六、西村京太郎、島田一男、中岡俊哉、大下英治、船戸与一などの挿絵を描く。サスペンスマガジン、SMファン、別冊SMファン、SMキング、S&Mスナイパー、SMクラブ、SMコマンド、SMフェニックス、スパークSM、ヤングV、漫画ダイナマイトなどに作品発表。
別名
小悪一之[1]、亀有住男[1]、小圷(こあつく)征夫(本名)[1]
略歴
1943年(昭和18年)、誕生。
父親はニューギニアで戦士。母親は埼玉で学校の教師[1]。
1950年代、母親が死去。兄と姉と亀有で生活。画家を目指す[1]。
1958年(昭和33年)頃、日立市の親戚の家に移り、高校入学。やがて都内の叔父の下に移り、都立高校に入るが退学。美術学校に通う[1]。
1961年(昭和36年)頃、志村立美に弟子入りして、田園調布の志村立美宅に住み込み[1]。
1963年(昭和38年)頃、志村立美から小悪征夫の名をもらい独立[1]。
1963年(昭和38年)頃、お茶の水のレモンで井上洋介と知り合う。その伝手で雑誌の挿絵の仕事が入る[1]。
1960年代、久保書店を紹介されサスペンスマガジンなどの挿絵[1]。
1970年代、風景画に興味を持ち出す[1]。
1982年(昭和57年)10月1日、SMスパイダー10月創刊号の表紙や挿絵。
1987年(昭和62年)4月21-26日、ロイヤルサロンギンザにて『出版画実術家連盟8人展<艶>』。小妻要、小悪征夫、堂昌一、沢登みよじ、レオ澤鬼、西村春海、日影眩、前田寿安。
エピソード
- 小悪征夫は師匠である志村立美が命名[1]。
- 高校の頃居候していた叔父は図書館長をしており、その時、多くの本を読んだ[1]。
- 尾崎士郎の知り合いの女性が志村立美に紹介状を書いてくれた[1]。
- 三崎書房の『幻想と怪奇』のイラストを書いていた縁で、三崎書房倒産後に早川佳克を司書房に紹介[2]。
- 挿絵、風景画、劇画と幅を広げていく[1]。
- 「風景画には、おれの暗さが出る」[1]。
- サスペンスマガジンの仕事あたりから「女を描くってことを意識」[1]。
- 「福島正実編集長時代の早川の『EQMM 』に一度描き、それを見て学研から『ドラキュラ』の画を描いてくれという注文が来た」[1]。
- 「おれのSM画はポルノの延長なんだと思っている。病気みたいなSMはダメだね。だからSMとしては本格的じゃないね」[1]。
代表作
- 『ファントマ』ハヤカワ文庫
- 『タイム・マシン』角川文庫
引用文献
注釈