「豊幹一郎」の版間の差分

提供:SMpedia
編集の要約なし
15行目: 15行目:
1978年(昭和53年)、[[SMコレクター]]の巻頭グラビアに初登場。その後「豊幹一郎の世界」「豊幹一郎の縄の世界」「豊幹一郎の撮影同行記」と名をかえて連載<ref name="写真史"></ref>。
1978年(昭和53年)、[[SMコレクター]]の巻頭グラビアに初登場。その後「豊幹一郎の世界」「豊幹一郎の縄の世界」「豊幹一郎の撮影同行記」と名をかえて連載<ref name="写真史"></ref>。


1979年(昭和54年)、[[SM奇譚]]に『'''縛り方入門'''』連載。
1979年(昭和54年)、[[SM奇譚]]に[[緊縛教材(印刷物)]]として『'''縛り方入門'''』連載(7月号〜12月号)。


1982年(昭和57年)4月14日、[[バンビデオ]]に初めて出演。『[[豊幹一郎]]の緊縛入門』『SMドキュメント 緊縛と蝋燭の色地獄』を撮影。女優は水原小夜、カメラは[[峰一也]]<ref name="nurekiwork">「[[濡木痴夢男]]仕事メモ」。[[風俗資料館]]所蔵。</ref>。これらは[[SMビデオ|バンビデオ]]に[[豊幹一郎]]名の、「豊幹一郎のSMドキュメント Part 1 緊縛蝋涙責め」「豊幹一郎のSMドキュメント Part 2 How to Bondage」として発売された模様<ref name="ex01"  name="manbou">[[貴重な情報発信サイト|「マンボウ資料館」]]による。</ref>。
1982年(昭和57年)4月14日、[[バンビデオ]]に初めて出演。『[[豊幹一郎]]の緊縛入門』『SMドキュメント 緊縛と蝋燭の色地獄』を撮影。女優は水原小夜、カメラは[[峰一也]]<ref name="nurekiwork">「[[濡木痴夢男]]仕事メモ」。[[風俗資料館]]所蔵。</ref>。これらは[[SMビデオ|バンビデオ]]に[[豊幹一郎]]名の、「豊幹一郎のSMドキュメント Part 1 緊縛蝋涙責め」「豊幹一郎のSMドキュメント Part 2 How to Bondage」として発売された模様<ref name="ex01"  name="manbou">[[貴重な情報発信サイト|「マンボウ資料館」]]による。</ref>。

2019年11月17日 (日) 10:34時点における版

S&Mコレクター1978年12月号の巻頭グラビア『繩の狩人』に出演する濡木痴夢男カメラの豊幹一郎濡木痴夢男枷井克哉不二秋夫らが作った架空の名前。
SM奇譚に連載していた豊幹一郎縛り方入門』の第4回。SM奇譚1979年10月号より。
バンビデオ豊幹一郎S&Mドキュメント』の広告。S&Mスナイパー1982年9月号より。

ゆたか かんいちろう。1970年代に濡木痴夢男枷井克哉不二秋夫らがからなる「ゆたか編集室」で作られた架空の名前。緊縛師としては濡木痴夢男、カメラマンとしては枷井克哉不二秋夫

別名

稲田乾二濡木痴夢男枷井克哉不二秋夫

概要

1970年中期、緊縛師濡木痴夢男、写真家枷井克哉、同不二秋夫サン出版などのSM雑誌の緊縛グラビアを撮る時につけたユニットとしての名前。したがって、豊幹一郎=濡木痴夢男とするのは必ずしも正確ではなく、豊幹一郎=(濡木痴夢男枷井克哉不二秋夫+他、あるいはそれらの組合せ)の場合もある。単純に豊幹一郎濡木痴夢男と考えてもよいケースもあるので複雑である。SM奇譚では、稲田乾二を使っていた[1]。同様のユニット名に伊集院剛などがある。

歴史

1970年(昭和45年)、豊幹一郎ユニットは「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体となる[注 1][1]

1978年(昭和53年)、SMコレクターの巻頭グラビアに初登場。その後「豊幹一郎の世界」「豊幹一郎の縄の世界」「豊幹一郎の撮影同行記」と名をかえて連載[1]

1979年(昭和54年)、SM奇譚緊縛教材(印刷物)として『縛り方入門』連載(7月号〜12月号)。

1982年(昭和57年)4月14日、バンビデオに初めて出演。『豊幹一郎の緊縛入門』『SMドキュメント 緊縛と蝋燭の色地獄』を撮影。女優は水原小夜、カメラは峰一也[2]。これらはバンビデオ豊幹一郎名の、「豊幹一郎のSMドキュメント Part 1 緊縛蝋涙責め」「豊幹一郎のSMドキュメント Part 2 How to Bondage」として発売された模様[3]

1982年(昭和57年)、SMコレクター5月号に「実戦シリーズ 縛り方入門 豊幹一郎」がある[3]

1984年(昭和59年)、SMファンに『豊幹一郎の唯縄士独尊』連載。

引用文献

注釈

  1. この1970年は、枷井克哉の出現時期などから照らして早すぎるのではないか?70年からあった「ゆたか編集室」に、やがて枷井克哉不二秋夫、須賀が非常勤でメンバとして参加し、70年代後半から豊幹一郎ユニットとして活動したのではないか?