「豊幹一郎」の版間の差分
提供:SMpedia
編集の要約なし |
(→解説) |
||
3行目: | 3行目: | ||
==解説== | ==解説== | ||
1970年中期、緊縛師[[濡木痴夢男]]、写真家[[枷井克哉]]、同[[不二秋夫]]が[[サン出版]]などのSM雑誌の緊縛グラビアを撮る時につけたユニットとしての名前。したがって、豊幹一郎=濡木痴夢男とするのは正確ではなく、豊幹一郎=(濡木痴夢男+枷井克哉+不二秋夫)である。<ref name="写真史"> | 1970年中期、緊縛師[[濡木痴夢男]]、写真家[[枷井克哉]]、同[[不二秋夫]]が[[サン出版]]などのSM雑誌の緊縛グラビアを撮る時につけたユニットとしての名前。したがって、豊幹一郎=濡木痴夢男とするのは正確ではなく、豊幹一郎=(濡木痴夢男+枷井克哉+不二秋夫)である。[[SM奇譚]]では、[[稲田乾二]]を使っていた<ref name="写真史">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4426738008?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4426738008 秋田 昌美、濡木痴夢男、不二 秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996)]</ref>。同様のユニット名に[[伊集院剛]]などがある。 | ||
==歴史== | |||
1970年(昭和45年)、[[豊幹一郎]]ユニットは「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが[[緊美研]]の母体となる<ref group="注">この1970年は、[[枷井克哉]]の出現時期などから照らして早すぎるのではないか?70年からあった「ゆたか編集室」に、やがて枷井、不二、須賀が非常勤でメンバとして参加し、70年代後半から[[豊幹一郎]]ユニットとして活動したのではないか?</ref><ref name="写真史"></ref>。 | |||
[[ | 1978年(昭和53年)、[[SMコレクター]]の巻頭グラビアに初登場。その後「豊幹一郎の世界」「豊幹一郎の縄の世界」「豊幹一郎の撮影同行記」と名をかえて連載<ref name="写真史"></ref>。 | ||
1982年(昭和57年)、[[バンビデオ]]に[[豊幹一郎]]名の、「豊幹一郎のSMドキュメント Part 1 緊縛蝋涙責め」「豊幹一郎のSMドキュメント Part 2 How to Bondage」などがある<ref name="ex01" name="manbou">[[貴重な情報発信サイト|「マンボウ資料館」]]による。</ref>。 | |||
1982年(昭和57年)、[[SMコレクター]]5月号に「実戦シリーズ 縛り方入門 豊幹一郎」がある<ref name="ex01" name="manbou"></ref>。 | |||
1982年(昭和57年) | |||
== 引用文献== | == 引用文献== |
2010年4月15日 (木) 09:13時点における版
別名
解説
1970年中期、緊縛師濡木痴夢男、写真家枷井克哉、同不二秋夫がサン出版などのSM雑誌の緊縛グラビアを撮る時につけたユニットとしての名前。したがって、豊幹一郎=濡木痴夢男とするのは正確ではなく、豊幹一郎=(濡木痴夢男+枷井克哉+不二秋夫)である。SM奇譚では、稲田乾二を使っていた[1]。同様のユニット名に伊集院剛などがある。
歴史
1970年(昭和45年)、豊幹一郎ユニットは「ゆたか編集室」という名義で雑誌の仕事を請け負っていた。これが緊美研の母体となる[注 1][1]。
1978年(昭和53年)、SMコレクターの巻頭グラビアに初登場。その後「豊幹一郎の世界」「豊幹一郎の縄の世界」「豊幹一郎の撮影同行記」と名をかえて連載[1]。
1982年(昭和57年)、バンビデオに豊幹一郎名の、「豊幹一郎のSMドキュメント Part 1 緊縛蝋涙責め」「豊幹一郎のSMドキュメント Part 2 How to Bondage」などがある[2]。
1982年(昭和57年)、SMコレクター5月号に「実戦シリーズ 縛り方入門 豊幹一郎」がある[2]。