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[[若松孝二]]監督が交通事故で亡くなった。1936年(昭和11年)4月1日生まれとされているので、76才である。今年だけでも、5月のカンヌ国際映画祭に新作『[http://www.youtube.com/watch?v=FqVuqPfkkls&feature=relmfu 11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち]』が招待上映、9月のベネチア国際映画祭に新作「[http://www.youtube.com/watch?v=_C3Vm7ZRPLE 千年の愉楽]」が招待上映、10月には釜山国際映画祭にて「今年のアジア映画人賞」受賞と精力的に活動されていただけに、惜しまれる突然の死である。 | [[若松孝二]]監督が交通事故で亡くなった。1936年(昭和11年)4月1日生まれとされているので、76才である。今年だけでも、5月のカンヌ国際映画祭に新作『[http://www.youtube.com/watch?v=FqVuqPfkkls&feature=relmfu 11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち]』が招待上映、9月のベネチア国際映画祭に新作「[http://www.youtube.com/watch?v=_C3Vm7ZRPLE 千年の愉楽]」が招待上映、10月には釜山国際映画祭にて「今年のアジア映画人賞」受賞と精力的に活動されていただけに、惜しまれる突然の死である。 | ||
[[若松孝二]] | [[若松孝二]]監督のデビュー作とされているのが1963年(昭和38年)の『甘い罠』。制作は[[東京企画]]で主演女優は[[香取環]]である。年代的にも、制作の[[東京企画]]も、個人的には興味深い存在である。 | ||
1960年代の前半といえば、いわゆる「[[ピンク映画]]」が勃興した時代。最初のピンク映画とされる[[小林悟]]監督『肉体の市場』が公開されたのが1962年(昭和37年)3月。続く11月には[[本木荘二郎]]が『肉体自由貿易』(国新映画)を制作しており、この作品をピンク映画第1号とする説もあるらしい。いずれにせよこの時代の作品、「[[ピンク映画]]」といっても(「[[ピンク映画]]」という言葉そのものは1963年(昭和38年)に内外タイムスの記事で使われた「おピンク映画」が起源とされている)、その後の[[ピンク映画]]がそうであるような、過激なセックスシーンはほとんどなく、今のわれわれが観ると普通の性表現作品である。位置づけとしては、1960年代初めに、大手映画会社ではなく、群小プロダクションが低予算で映画作品を作り始め、観客の注目を集めるために大手映画会社が躊躇する性や暴力表現を取り入れた映画作品、ということになる。 | 1960年代の前半といえば、いわゆる「[[ピンク映画]]」が勃興した時代。最初のピンク映画とされる[[小林悟]]監督『肉体の市場』が公開されたのが1962年(昭和37年)3月。続く11月には[[本木荘二郎]]が『肉体自由貿易』(国新映画)を制作しており、この作品をピンク映画第1号とする説もあるらしい。いずれにせよこの時代の作品、「[[ピンク映画]]」といっても(「[[ピンク映画]]」という言葉そのものは1963年(昭和38年)に内外タイムスの記事で使われた「おピンク映画」が起源とされている)、その後の[[ピンク映画]]がそうであるような、過激なセックスシーンはほとんどなく、今のわれわれが観ると普通の性表現作品である。位置づけとしては、1960年代初めに、大手映画会社ではなく、群小プロダクションが低予算で映画作品を作り始め、観客の注目を集めるために大手映画会社が躊躇する性や暴力表現を取り入れた映画作品、ということになる。 |
2012年10月18日 (木) 09:06時点における版
この記事は2012年(平成24年)10月18日に「Ardent Obsession III」に投稿されたブログ記事を転載したものです。
若松孝二と「花と蛇」
若松孝二監督が交通事故で亡くなった。1936年(昭和11年)4月1日生まれとされているので、76才である。今年だけでも、5月のカンヌ国際映画祭に新作『11.25 自決の日 三島由紀夫と若者たち』が招待上映、9月のベネチア国際映画祭に新作「千年の愉楽」が招待上映、10月には釜山国際映画祭にて「今年のアジア映画人賞」受賞と精力的に活動されていただけに、惜しまれる突然の死である。
若松孝二監督のデビュー作とされているのが1963年(昭和38年)の『甘い罠』。制作は東京企画で主演女優は香取環である。年代的にも、制作の東京企画も、個人的には興味深い存在である。
1960年代の前半といえば、いわゆる「ピンク映画」が勃興した時代。最初のピンク映画とされる小林悟監督『肉体の市場』が公開されたのが1962年(昭和37年)3月。続く11月には本木荘二郎が『肉体自由貿易』(国新映画)を制作しており、この作品をピンク映画第1号とする説もあるらしい。いずれにせよこの時代の作品、「ピンク映画」といっても(「ピンク映画」という言葉そのものは1963年(昭和38年)に内外タイムスの記事で使われた「おピンク映画」が起源とされている)、その後のピンク映画がそうであるような、過激なセックスシーンはほとんどなく、今のわれわれが観ると普通の性表現作品である。位置づけとしては、1960年代初めに、大手映画会社ではなく、群小プロダクションが低予算で映画作品を作り始め、観客の注目を集めるために大手映画会社が躊躇する性や暴力表現を取り入れた映画作品、ということになる。
つながり
<metakeywords>緊縛, 映画, 昭和</metakeywords>