「解語の花」の版間の差分
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2012年2月25日 (土) 12:15時点における版
概要
写真家星野小麿が1970年代から主催するアマチュアカメラマンのための撮影会『KPC』の分科会の1つ[1][注 1]。1976年(昭和51年)にの第1回目から濡木痴夢男が講師として招かれ、その後、1979年(昭和54年)の第20回目まで、4年間に亘り、濡木痴夢男が講師を担当した。解語の花の会員には、枷井克哉、須賀忠、不二秋夫らがおり、後の「ゆたか編集室」や「緊美研」発足のきっかけとなる[1]。
歴史
1976年(昭和51年)11月14日、星野小麿主宰KPCの分科会の1つとして第1回『解語の花』が百花苑で開かれる。講師は濡木痴夢男。モデルは深美ジュン[1][注 2]。
1976年(昭和51年)12月4日、第2回撮影会。東銀座の東劇ビルにあった東劇スタジオ[注 3]にて。モデルは花房利香。
1976年(昭和51年)12月26日、第3回撮影会。秋葉原の近くの凸版印刷がもっていたスタジオで[注 4]。モデルは花房利香と秋川みずえ。
1977年(昭和52年)、須賀忠と不二秋夫が会員となり参加してくる。
1977年(昭和52年)4月2日、第6回撮影会。東劇スタジオにて。モデルは森れい子。濡木痴夢男はこの時に初めて枷井克哉の存在をはっきりと意識する[1]。
1977年(昭和52年)4月11日、濡木痴夢男は枷井克哉に頼まれて、森れい子をモデルにしたプライベート撮影の緊縛[1]。
1979年(昭和54年)、第20回『解語の花』で終了[1]。
トピック
- 『解語(かいご)の花』とは 「言葉を解する花」という意味で、 美人のことを意味する中国古語から由来した表現。「唐の玄宗皇帝が楊貴妃と太液の池に咲く蓮の花を鑑賞していたとき、玄宗が家来に、「蓮の花より解語の花の方が美しい」と言ったことから出た語。」
- 星野小麿自身は緊縛には興味がなかったが、1971年(昭和46年)に芳賀書店から出た篠山紀信の『緊縛写真大全』などに興味をもっていた枷井克哉などの数名の会員が強く希望したために、『KPC』に「緊縛部門」を組み込むことを決意[1]。
- 春原悠理が1976年頃に解語の花のモデルとして参加[1]。
- 濡木痴夢男は、星野小麿が枷井克哉の作品を「個性が強すぎる」と評したことに不満だったようだ[1]。
- 最後の方は、参加者も数名となっていた。その中に枷井克哉、須賀忠、不二秋夫らの熱心な緊縛ファンが入っており、後の「ゆたか編集室」や「緊美研」発足のきっかけとなる[1]。
- 『撮影同行記』の中で『縛り方教室』と出てくるのは、この「解語の花」のことである。