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*[[森下高茂|天泥盛栄]]『'''或る被虐性愛者の手記より'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195308/02/133.html p138]
*[[森下高茂|天泥盛栄]]『'''或る被虐性愛者の手記より'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195308/02/133.html p138]
*[[森下高茂|原忠正]]『現代マゾヒズム芸術時評』[[奇譚クラブ]]1954年(昭和29年)~1955年(昭和35年)年連載。
*[[森下高茂|原忠正]]『現代マゾヒズム芸術時評』[[奇譚クラブ]]1954年(昭和29年)~1955年(昭和35年)年連載。
*[[森下高茂|天泥盛栄]]『'''マゾヒスム断想'''』[[奇譚クラブ]]1956年(昭和31年)7月号, [hhttp://nawa-art.com/backnumber/1950/195607/02/121.html p124]
*[[森下高茂|天泥盛栄]]『'''マゾヒスム断想'''』[[奇譚クラブ]]1956年(昭和31年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195607/02/121.html p124]
*『マゾヒズムへの招待』[[裏窓]]1960年(昭和35年)連載。
*『マゾヒズムへの招待』[[裏窓]]1960年(昭和35年)連載。
*[[森下高茂|谷貫太]]『マゾヒストの手紙から』[[風俗奇譚]]1960年(昭和35年)~1961年(昭和36)年連載。
*[[森下高茂|谷貫太]]『マゾヒストの手紙から』[[風俗奇譚]]1960年(昭和35年)~1961年(昭和36)年連載。

2011年4月9日 (土) 15:33時点における版

もりした たかしげ、1927年(昭和2年)[1]

概要

風俗史研究家。文筆家。

別名

谷貫太、森本愛造原忠正、森下小太郎(本名)、天泥盛栄、天泥盛英(あまでもりえ)、フェニクス商会、T. C. Moriscita, マックス・フォン・ティーツェム

略歴

1953年(昭和28年)、奇譚クラブ4月号に森本愛造『乗馬靴と長靴と鞭』p30

1954年(昭和29年)、奇譚クラブ4月号のグラビアに『鞭打つ女と馬になる男』と題して、BizarreJohn Willieの作品と思われるイラストと写真が「天泥盛英氏提供」で掲載。同誌のグラビアに『残虐なる女性達』と題してDas Grausame Weib誌、Das Leben誌の挿絵、Vala Moro, Tackの作品を森本愛造の名前で紹介。

1960年(昭和35年)、別冊風俗奇譚上に「ニュートリクス(Nutrix)・コーナー」「ニュートリクス画廊」の記事が頻繁に現れる。

1960年(昭和35年)、8月28日「週刊現代」に「あけぼの会事件」をたたかれる[2]

1961年(昭和36年)、日本ヌートリクス株式会社(旧泰西出版株式会社ヌートリクス社販売部)設立。

1964年(昭和39年)、あまとりあ社から『ショッキング画集1』を出版。John Willieなどのイラスト集。解説文を濡木痴夢男と共に書いている。

エピソード

  • 奇譚クラブ』『裏窓』『風俗奇譚』などで海外のフェチシズムを紹介。
  • 森下からFakir Musafarを通じて、日本の緊縛写真が米国に流れていた。
  • 濡木痴夢男Fakir Musafarを紹介した。
  • 1981年(昭和56年)の「諸君」(文藝春秋社)で「家畜人ヤプー」の作者沼正三が東京高裁判事倉田卓次氏だということを暴露。現在ではこれは誤認識とされている。
  • 昭和30年代に横浜本牧にSMグッズ店をもっていた[3]
  • 風俗奇譚1961年頃に広告を出していた『泰西出版資料会社』は森下高茂の会社と推測される。本社は横浜市中区北方町1-67。東京出張所は渋谷区上通り3-28(スカラ座筋向かい)の喫茶「ら・ぷらた」となっている。ヌートリクス社の日本総代理店とある。
  • 画報風俗奇譚1961年(昭和36年)10月号, p90には「日本ヌートリクス株式会社(旧泰西出版株式会社ヌートリクス社販売部)提供」とある。
  • 小田急線相模大野駅付近に金髪の夫人と住んでいた[3]

代表作

主なもの

脚注

つながり

濡木痴夢男 Fakir Musafar

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