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1979年(昭和54年)6月、鶴見新世界で『白夜&花<ref group="注">後の[[根暗童子]]とそのパートナーの美術大学学生。インドに行く資金作りのために出演。約2ヶ月間の小屋周りで200万円の資金を作る。</ref>』によるドラマ性のある白黒ショーをプロデュース<ref name="saraba"></ref>。
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川上譲治

かわかみ じょうじ、1950年(昭和25年)ー

概要

ストリップ演出家。写真家。70年代に照明係としてストリップ業界に入る。当時の即物的なストリップに疑問を感じ、ショーアップした企画モノのストリップを次々に考案。アングラ劇団、前衛舞踏との接点も多く、ストリップ、演劇、SMが融合したユニークなジャンルを確立。ショーアップ大宮で始めたSM大会は、DX歌舞伎町SM大会として川上譲治の手を離れた現在もSM界の大きな恒例イベントとして続いてる。

別名

ジョウジ川上

略歴

1950年(昭和25年)、島根県浜田市生まれ。

1975年(昭和50年)、大阪芸術大学写真学科を中退[1]

1976年(昭和51年)4月、新宿のモダンアートに照明係として入社[1]

1977年(昭和52年)7月、営業提携の話が持ち上がった石和ミュージックホール(山梨県)に転勤[注 1]

1978年(昭和53年)7月、石和ミュージックホールとの提携話は破談となり、モダンアートの系列の大宮DX劇場に転勤[1]。名義社長となる[注 2]

1978年(昭和53年)10月、全国的レベルでのストリップの取り締まりが始まる。

1978年(昭和53年)12月、モダンアートの系列の川口DX劇場の支配人、続くオーナーである萩本の逮捕を受け川口DX劇場に転勤[1]

1979年(昭和54年)1月、オーナーによる「脱マナ板ショー」宣言[1]

1979年(昭和54年)1月、DXブーレン[注 3]を結成。

1979年(昭和54年)2月21日、初の川上譲治による企画『ジャズバンドとストリップのジャムセッション』[注 4]。ショーは成功したがオーナーとの意見が合わず退職・独立を決意[1]

1979年(昭和54年)3月、芸能プロダクション原プロの原社長に事務所(台東区浅草・第二松倉荘[注 5]203号)を提供してもらい企画集団『DXブーレン』の本格的始動。

1979年(昭和54年)4月、TBSによる『DXブーレン』の特集企画が持ち上がり、流山児祥を説得してシナリオを書いてもらう。4月16日、モダンアートを借りて「オカマ&ストリッパー 濡れた花弁に弾丸を![注 6]」を上演。

1979年(昭和54年)6月、鶴見新世界で『ゴールデンサラマンドラ』の金箔レスビアンショー[注 7][1]

1979年(昭和54年)6月、鶴見新世界で『白夜&花[注 8]』によるドラマ性のある白黒ショーをプロデュース[1]

1979年(昭和54年)7月、流山児祥の「演劇団」公演打ち上げで、団員の一人で土方巽のスナックでバイトをしていた松田千鶴[注 9]を紹介される。

1980年(昭和55年)12月、モダンアートにでラー企画のメンバーを使った前衛SMショー『胡弓&カラス』を上演して大人気となる[1]

1980年(昭和55年)12月、モダンアートを離れ、当時スカイ劇場のオーナーだった萩本と和解し、スカイ劇場に活動拠点を移す[注 10]

1981年(昭和56年)2月、神戸新開地「神戸ゴールド」でSMショー[注 11][1]

1981年(昭和56年)3月、スカイ劇場にてマリ千鶴(松田千鶴)の『マリ千鶴・直感の世界[注 12]』が大ヒット[注 13]

1981年(昭和56年)4月、スカイ劇場の企画ショー第2弾として「ポラロイドショー」[注 14][2]

1981年(昭和56年)4月、スカイ劇場で『芸術ストリップ・ショー ダンスラブマシーン』[注 15][1]

1981年(昭和56年)5月、スカイ劇場でアングラ舞踏家[注 16]の『杏&逗子王』白黒金粉ショー[1]

1981年(昭和56年)7月1日、売りに出た若松劇場を萩本が買い取り、オープン記念特別興行の『アドリアーネの会』を企画[注 17][1]

1981年(昭和56年)7月31日、16mm映画『ザ・ストリッパー 堕ちて藍』(製作:ジョウジ川上、企画・原案:伊藤裕作、脚本:山崎哲[注 18]・後藤和夫、出演:ルビ、マリ千鶴、前田真理子、丘さと志[注 19])がスカイ劇場で公開。大入り満員[1]

1981年(昭和56年)8月、ニューヨーク公演の話が持ち上がる[1][注 20]

1981年(昭和56年)9月11日、スカイ劇場で「泥んこ生板女子大レスリングショー」がヒット[1]

1982年(昭和57年)3月、スカイ劇場で「覗き部屋ショー」[1][注 21]

1982年(昭和57年)5月、スカイ劇場で「スキャンダル東京キッド」のショー[1][注 22]

1982年(昭和57年)7月、スカイ劇場で「ストトル・ショー」がヒット[1][注 23]。8日目に警察の手入れ。続いて2回目の手入れ。

1982年(昭和57年)8月2日、公然わいせつ罪の容疑で逮捕。3日に送検。8月23日まで拘留され略式起訴の罰金5万円の刑[1]

1982年(昭和57年)12月、スカイ劇場で「デートショー」[1][注 24]

1983年(昭和58年)1月、スカイ劇場で日野繭子のポルノ劇[1][注 25]。ここでしばらくスカイ劇場の企画から離れる。

1983年(昭和58年)4月1日、「スキャンダル東京キッド」の高橋と共に「有限会社オフィステイク」を設立。アングラ劇団、暗黒舞踏団、ロックバンドなどをタレントに使う[1]。「スキャンダル東京キッド」「セクシーシーフロイト」「ドリーマーズ」「東京クレージーショー」などを関東・関西の劇場に送る[注 26]

1983年(昭和58年)9月、夫人であるマリ千鶴(松田千鶴)の出産ビデオ(KUKI)撮影[1]

1983年(昭和58年)10月、名古屋大須観音の大道芸祭りにレビュー公演[1]

1984年(昭和59年)4月、モダンアートの昼の部を買い取り、オフィステイクの小屋とする。名前も「シアターパラダイス」として改装開館。ヘアを見せないレビューを目指し「新宿玉三郎とパラダイス・ダンサーズ」を組織。森美貴もゲスト出演。

1984年(昭和59年)9月、オフィステイクとは関係のない夜の部が警察に摘発されモダンアートが80日間の営業停止。これを機会に夜の部も買い取る[1]

1984年(昭和59年)11月、モダンアートを「シアターニューモダンアート」と改名して改装開館。こけら落としが流山児祥演出による「肉体の門1984年」。45日のロングランだったが客入りはいまひとつ[1]

1985年(昭和60年)2月、「シアターニューモダンアート」での第2弾として「人工少年博覧会」[1][注 27]

1985年(昭和60年)2月11日、新風営法の施行日。「シアターニューモダンアート」を閉じる[注 28]

1985年(昭和60年)5月1日、スカイ劇場の企画に復帰し、「シンドローム・ミスター」のホモショーを考案[1][注 29]

1985年(昭和60年)8月31日、スカイ劇場のさよなら興行「ラストストリップ」をプロデュース。紺野尚子のスネークショー、プチ亜利益沙[注 30]の金粉ショー、セクシープロイト[注 31]のSMショー、ダンスラブマシーン[注 32]、ビクトリー和胡[注 33]、美芸公[注 34]、ブレーク・トリボーズ[注 35]、東京ファンタジア。たまきあい、パペティアット銀猫、マリ千鶴、東京裸舞ハンター[注 36]。11日間の公演。この後、一時ストリップから引退し、運送業を営む[2]

1990年(平成2年)頃、ストリップ界に復帰。大宮の劇場や「鶴見新世界劇場」[2]

1992年(平成4年)、 「恐山の女」アングラストリップ劇公演をプロデュース

1993年(平成5年)頃、再び一時引退。タクシーの運転手をしながら亜細亜大学法学部法律学科社会人入学[2]

1997年(平成9年)、 亜細亜大学法学部法律学科卒業

1998年(平成10年)、 新生・鶴見新世界劇場(神奈川県)にて、おもしろ企画興行をプロデュース

2001年(平成13年)、ショーアップ大宮劇場の社長となる。

2002年(平成14年)、「ビックダンス」ソロダンサーダンス大会興行をプロデュース

2003年(平成15年)11月1日、『ザ・SMワールド』をプロデュース。以後、定期的にSM興行。

2004年(平成16年)5月、ショーアップ大宮で第1回 『The Homosexual world』をプロデュース

2005年(平成17年)2月、ショーアップ大宮劇場の社長を退く。

2005年(平成17年)、大阪芸術大学大学院芸術製作研究科写真専攻社会人入学

2006年(平成18年)、DX歌舞伎町「DX歌舞伎ファイナル伝説」のプロデュースを最後にストリップ界から引退。

2008年(平成20年)、故郷の島根県浜田に戻り、介護タクシーの運転手をやりながら写真展などを開催。

2010年(平成22年)3月2日-7日、『ストリップ魂 巡業展』於 gallery G (広島)

2010年(平成22年)10月29日-11月24日、『裸的群像伝』於 ギャラリー「あーとすぺーす」(京都嵐山)

2010年(平成22年)12月1日-24日、『裸的群像伝1976-2005』於 ビア&カフェ BERG (新宿)

2010年(平成22年)12月26日、シアターPOOでの松本格子戸企画による『年忘れ!!新宿変態大饗宴!!』にゲスト出演。

2011年(平成23年)1月15日-28日、『極私的記憶写真1976-2005』於 石正美術館 (浜田)

エピソード

  • モダンアートに入社するまで、ストリップは観たことがなかった[1]
  • 川上譲治が入社した時のモダンアートのオーナーは「萩本」[1]
  • 1979年頃、長田英吉玉井敬友がSMショーをやっており大人気を博していた。当時のスタンダードなストリップ(ソロダンスで1日1万2千円)に比べて比較にならないほど高いギャラ(舞台仕込み料別で1日3ステージで18万円)をとっていた[1]
  • 考案した新企画は「ポラロイドショー」、「聖水ショー」、「ピーピングショー」、「ストトルショー」、「マン拓ショー」、「混浴ショー」、「オカマとストリッパーのレズビアンショー」、「生板どろんこレスリングショー」他。
  • ショーアップ大宮の雇われ社長であった。

 

代表作

著書・写真集

SMショープロデュース

参考資料

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 1.14 1.15 1.16 1.17 1.18 1.19 1.20 1.21 1.22 1.23 1.24 1.25 1.26 1.27 1.28 1.29 1.30 1.31 川上譲治さらばストリップ屋』(朝日新聞社, 1988)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 Web Sniper 「ジョウジ川上55歳の決意」

注釈

  1. 当時、石和には石和ミュージックホール石和温泉劇場があり、どちらも温泉客相手。劇場公演と、旅館に出向いの出前ストリップ興業(後者は非合法)。
  2. ストリップ劇場における名義社長は、警察の手入れがあった場合、責任者として取り調べを受ける役割で、手入れがオーナーにまで及ばないようにするための防波堤の役目を果たしていた。
  3. 大学後輩の久美夫婦と。久美がK・朝子として唯一のタレント。
  4. 踊り子のみっちー桜、司会者の辺ひろし、日本大学のジャズバンド「スィング」。スタッフはモダンアート支配人の柴田、大宮DX劇場照明係の村松、外人専門の芸能プロダクションのマネージャー有光、大宮DX劇場で常打ちしていたポルノ劇団『五人囃子』の主宰者の一色、カメラマンの郡司。
  5. かつて浅草フランス座の踊り子の寮だった。
  6. 出演は女優の林テレサとゲイバー「シンドバット」の春彦。
  7. 「山海塾が海外遠征の資金稼ぎに劇場回りをしているが、そこに外部から参加している女性ダンサー達が、直に劇場に出たがっている」と「斜眼体」という映画集団のメンバーから話をもちかけられ、大森にあった「アドリアーネの会」に「ルビ」と「チエ」を訪ねる。
  8. 後の根暗童子とそのパートナーの美術大学学生。インドに行く資金作りのために出演。約2ヶ月間の小屋周りで200万円の資金を作る。
  9. 1958年頃の生まれ。実践女子高校卒、実践女子大学中退。天井桟敷に在籍後、流山児祥の「演劇団」団員。警察関係の家庭に生まれ育つ。1980年(昭和55年)12月には川上譲治と入籍。
  10. 当時の入場料3000円を価格破壊し1000円興行ををおこなった。
  11. このとき、この「神戸ゴールド」が映画と二本立てで連日オールナイト興行をやっていたことを参考に、その後、スカイ劇場でもオールナイト興行を成功させる。
  12. 「マッチ売りの少女」としてマッチを観客に擦らせた。
  13. この公演あたりから従来のストリップファンに加えて、新しい若い層が観に来るようになる。
  14. ダンサーは『ゴールデンサラマンドラ』に出ていた「チエ」。「前田真理子」として出演。
  15. 暗黒舞踏団『 ダンスラブマシーン』主宰者の田村哲郎、その夫人の古川杏、『大駱駝館』の原田南店を練馬区豊玉にある『 ダンスラブマシーン』稽古場に訪れ、[[スカイ劇場]への出演を依頼。あまりにも前衛過ぎて、観客は拒否反応。
  16. インドに行くための資金稼ぎ。
  17. スカイ劇場以来のつきあい。大田区山王に事務所をもち、主宰者はカルロッタ池田。ヨーロッパ遠征の資金稼ぎにストリップ劇場に出る。反響が大きく、郡山ミュージック劇他、6つの劇場を回り500万円を稼ぐ。
  18. 『転位21』の主宰者。劇団員の藤井びん、犬塚信乃が出演。
  19. 元ギャングメッセーンジャーズ
  20. その後、10月にはNYで仮契約まで交わす。1982年(昭和57年)2月にはスカイ劇場で「ニューヨーク公演プレミアムショー」まで開催するが、NYの劇場側の都合でキャンセルされ、実現せず。
  21. 当時流行りだした「覗き部屋」に触発された企画。根暗童子が企画に参加。
  22. 当時、小樽を拠点にしていた北方舞踏派のメンバー。かつて「鈴蘭党」とい名でストリップ劇場を回っていたが、京都で摘発されしばらくストリップには出ずに、主にキャバレーのフロアショーで資金稼ぎをしていた。川上譲治北方舞踏派の高橋氏を紹介されたのは、宇野満氏からで、東京練馬にあった大駱駝館でであった。宇野満氏を川上譲治に紹介したのが、暗黒舞踏「天鶏」の主宰者、田中睦子女史からで、田中は川上譲治の舞台に上がっていた。
  23. 客を劇場外に連れ出し、マントルの内容の行為を劇場ビデオで他の客に見せるショー。「フォーカス」に取り上げられ、客が集まる。
  24. 根暗童子が企画に参加。
  25. ポルノ劇団『五人囃子 』の主宰者の一色が演出。
  26. 暗黒舞踏「天鶏」の主宰者、田中睦子と団員の天子、オフィステイク所属の紺野尚子(女流カメラマンからダンサーに転向)。
  27. アングラ劇団「少年王者」主宰の天野天街が演出。
  28. 4月1日から元のモダンアートに戻る。
  29. 目白のプロダクションACCが協力。
  30. 元アドリアーネの会
  31. アングラ劇団出身の宮下夫婦。オフィス405という芸能社で知り合う。
  32. 中山直一とその彼女
  33. 北方舞踏派の主宰者、ビショップ山田の妻
  34. 大駱駝館からの参加
  35. 田中睦子と鳥居氏の夫婦が主宰する暗黒舞踏「天鶏」から鳥居と座員の典子。
  36. 根暗童子と妻のマミ。

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