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パフォーマー。1964年(昭和39年)頃から[[向井一也]]のパートナーとして[[ストリップ]]劇場などの舞台でSMショーをおこなっていた。その舞台はたびたび[[奇譚クラブ]]でも紹介され、やがて[[奇譚クラブ]]の[[辻村隆]]を中心に「'''青木順子後援会'''」が結成された。[[辻村隆]]の[[SMカメラ・ハント]]』第1回目のモデルである。[[辻村隆]]の記事では、1964年(昭和39年)頃の作品は、[[青木順子]]が作・演出をしていたと書かれてるが、実際には[[向井一也]]が主導権を握っていたのかもしれない。1974年(昭和49年)頃には[[向井一也]]と「オリジナルの会」を結成しており、『サディストの告白』などのSM劇を小劇場で上演している。[[長田英吉]]も「オリジナルの会」の影響を受けたとされている。1974年(昭和49年)8月に、上京前の[[玉井敬友]]が大阪の自身の劇場『[[シアター喫茶・スキャンダル]]』に[[向井一也]](と恐らく[[青木順子]])を招聘している。 | |||
==別名== | ==別名== | ||
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english] | [http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english]、[[青木純子]] | ||
==略歴== | ==略歴== | ||
[[向井一也]] | 1961年(昭和36年)頃、[[向井一也]]が[[深井俊彦]]に手紙で[[青木順子]]を紹介。舞台テストで[[濡木痴夢男]]が逆海老に縛り、その後[[深井俊彦]]演出の舞台に出演<ref name="SMKING197302">[[深井俊彦]]『'''舞台の上のマゾ女優'''』[[SMキング]]1973年(昭和48年)2月号</ref>。 | ||
1963年(昭和38年)8月2日、[[道劇ミュージックホール]]で「新装開場第2弾!タムレタムレヌード」に特別出演:[[青木順子]]<ref name="#12594765756">[https://ameblo.jp/cobanobu/entry-12594765756.html cobanobuのブログ「特別出演 青木順子」]</ref>。 | |||
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1964年(昭和39年)、[[奇譚クラブ]]11月号の[[辻村隆]] | 1964年(昭和39年)、[[奇譚クラブ]]11月号の[[辻村隆]]『[[SMカメラ・ハント]]』、[http://nawa-art.com/backnumber/1960/196411/171.html 第1回目]のモデル。 | ||
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1965年(昭和40年)、[[奇譚クラブ]]2月号、[http://nawa-art.com/backnumber/1960/196502/01/029.html p32][[辻村隆]] | 1965年(昭和40年)、[[奇譚クラブ]]2月号、[http://nawa-art.com/backnumber/1960/196502/01/029.html p32][[辻村隆]]サロン楽我記に「'''青木順子後援会'''」のこと。全国巡業をしている様子。 | ||
1965年(昭和40年)、[[奇譚クラブ]]4月号に[[辻村隆]]の「[[青木順子]]だより」 | |||
1965年(昭和40年) | 1965年(昭和40年)7月、6月の京都に引き続き大阪夕凪橋の[[ダイコウミュージック]]でベトナム動乱にちなんだSM劇<ref>1965年(昭和40年)9月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196509_kkk/010.html p20]</ref>。 | ||
1965年(昭和40年) | 1965年(昭和40年)、[[奇譚クラブ]]10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196510/013.html p16]に東山映史『サジズムの極致 「青木順子」京で大いに活躍』で千中ミュージックの公演を紹介。 | ||
1965年(昭和40年)、暮れの頃、「千中ミュージックを定席ににして[[向井一也]]と『本日休診』を上演」とある<ref>[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196601/01/016.html p19]</ref>。 | 1965年(昭和40年)、暮れの頃、「千中ミュージックを定席ににして[[向井一也]]と『本日休診』を上演」とある<ref>[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196601/01/016.html p19]</ref>。 | ||
1966年(昭和41年)、[[奇譚クラブ]]2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/03/154.html p157] | 1966年(昭和41年)、[[奇譚クラブ]]1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196601/01/016.html p19]の東山映史「映画通信」に「千中ミュージックを定席として、新作『本日休診』を上演して好評。[[向井一也]]が精神科の医者役」とある。 | ||
1966年(昭和41年)、[[奇譚クラブ]]2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/03/154.html p157]に丸鬼頭佐渡『[[青木順子]]さんについて』。1965年(昭和40年)7月の大阪ダイコウミュージックでの『気の弱い男の愛と死』『内気な男の愛と死』での[[向井一也]]との舞台の詳細を報告。 | |||
1966年(昭和41年)、[[奇譚クラブ]]4月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196604/01/020.html p23]に岩木一夫『「[[青木順子]]ショーについて」呼び掛け』。まだ関西方面を巡業しているので早く関東に来て欲しいとの希望<ref group="注">この記事の中で、1965年(昭和40年)の暮れに船橋の大宝劇場でエロプロダクションによる[[ピンク実演]]『'''めす猫の宿'''』を見たが、サディスティックな場面がありなかなかよかったと書いている。</ref>。 | |||
1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]11月号の「編集部だより」に「大阪府下を従業しているとの読者からの連絡」「水責めと蝋責めが中心」 | 1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]11月号の「編集部だより」に「大阪府下を従業しているとの読者からの連絡」「水責めと蝋責めが中心」 | ||
1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]11月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196711/196711_092.html p246]に「[[青木順子]]のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。 | 1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]11月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196711/196711_092.html p246]に「[[青木順子]]のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。 | ||
1972年(昭和47年)8月、[[SMキング]]8月号, p136に『人物クローズアップ [[向井一也]]・[[青木順子|青木純子]]夫妻』の記事。 | |||
1974年(昭和49年)、[[奇譚クラブ]]9月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197409/03/239.html p242]に「[[青木順子]]『'''「サディストの告白』と、その部台裏'''』。新宿アートヴィレッジでの公演の様子。 | 1974年(昭和49年)、[[奇譚クラブ]]9月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197409/03/239.html p242]に「[[青木順子]]『'''「サディストの告白』と、その部台裏'''』。新宿アートヴィレッジでの公演の様子。 | ||
==[[SMカメラ・ハント]]== | |||
*[[奇譚クラブ]]1964年(昭和39年)11月号、[http://nawa-art.com/backnumber/1960/196411/171.html p174] | |||
*『'''[[SMカメラ・ハント]]「マゾ願望の人気者」[[青木順子]]を縛る'''』 | |||
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==エピソード== | ==エピソード== | ||
[[向井一也]]のパートナー。女子大卒のインテリ<ref>1964年(昭和39年)、[[奇譚クラブ]]11月号、[[辻村隆]]『SMカメラハント』</ref>。 | |||
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*『'''サド・マゾ劇を12年間も演じ私生活もSMのインテリ夫婦'''』 in [[週刊大衆]]1974年(昭和49年)11月28日号。 | |||
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2020年5月22日 (金) 06:09時点における最新版
あおき じゅんこ、(生年月日不明)。60年代から70年代のパフォーマー。 向井一也のパートナーとしてストリップ劇場や小劇場でのSM劇の受け手。辻村隆『SMカメラ・ハント』第1回目のモデル。
概要
パフォーマー。1964年(昭和39年)頃から向井一也のパートナーとしてストリップ劇場などの舞台でSMショーをおこなっていた。その舞台はたびたび奇譚クラブでも紹介され、やがて奇譚クラブの辻村隆を中心に「青木順子後援会」が結成された。辻村隆のSMカメラ・ハント』第1回目のモデルである。辻村隆の記事では、1964年(昭和39年)頃の作品は、青木順子が作・演出をしていたと書かれてるが、実際には向井一也が主導権を握っていたのかもしれない。1974年(昭和49年)頃には向井一也と「オリジナルの会」を結成しており、『サディストの告白』などのSM劇を小劇場で上演している。長田英吉も「オリジナルの会」の影響を受けたとされている。1974年(昭和49年)8月に、上京前の玉井敬友が大阪の自身の劇場『シアター喫茶・スキャンダル』に向井一也(と恐らく青木順子)を招聘している。
別名
略歴
1961年(昭和36年)頃、向井一也が深井俊彦に手紙で青木順子を紹介。舞台テストで濡木痴夢男が逆海老に縛り、その後深井俊彦演出の舞台に出演[1]。
1963年(昭和38年)8月2日、道劇ミュージックホールで「新装開場第2弾!タムレタムレヌード」に特別出演:青木順子[2]。
1963年(昭和38年)9月15日、道劇ミュージックホールで「とんぼりヌーフォーリーズ ショッキングピンクヌード」に特別出演:青木順子。構成演出:深井俊彦、振付:杉太郎[2]。
1964年(昭和39年)、奇譚クラブ5月号、芳野眉美『ガン作マニアのノート』で紹介[注 1]。
1964年(昭和39年)、奇譚クラブ11月号の辻村隆『SMカメラ・ハント』、第1回目のモデル。
1964年(昭和39年)9月11日ー15日、岐阜セントラル劇場にて青木順子の『サディズム・ヌード』[3]。
1964年(昭和39年)11月、東京都立川市の文化ミュージックに出演[4]。
1965年(昭和40年)、奇譚クラブ2月号、p32辻村隆サロン楽我記に「青木順子後援会」のこと。全国巡業をしている様子。
1965年(昭和40年)、奇譚クラブ4月号に辻村隆の「青木順子だより」
1965年(昭和40年)7月、6月の京都に引き続き大阪夕凪橋のダイコウミュージックでベトナム動乱にちなんだSM劇[5]。
1965年(昭和40年)、奇譚クラブ10月号, p16に東山映史『サジズムの極致 「青木順子」京で大いに活躍』で千中ミュージックの公演を紹介。
1965年(昭和40年)、暮れの頃、「千中ミュージックを定席ににして向井一也と『本日休診』を上演」とある[6]。
1966年(昭和41年)、奇譚クラブ1月号, p19の東山映史「映画通信」に「千中ミュージックを定席として、新作『本日休診』を上演して好評。向井一也が精神科の医者役」とある。
1966年(昭和41年)、奇譚クラブ2月号, p157に丸鬼頭佐渡『青木順子さんについて』。1965年(昭和40年)7月の大阪ダイコウミュージックでの『気の弱い男の愛と死』『内気な男の愛と死』での向井一也との舞台の詳細を報告。
1966年(昭和41年)、奇譚クラブ4月号, p23に岩木一夫『「青木順子ショーについて」呼び掛け』。まだ関西方面を巡業しているので早く関東に来て欲しいとの希望[注 2]。
1967年(昭和42年)、奇譚クラブ11月号の「編集部だより」に「大阪府下を従業しているとの読者からの連絡」「水責めと蝋責めが中心」
1967年(昭和42年)、奇譚クラブ11月号, p246に「青木順子のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。
1972年(昭和47年)8月、SMキング8月号, p136に『人物クローズアップ 向井一也・青木純子夫妻』の記事。
1974年(昭和49年)、奇譚クラブ9月号, p242に「青木順子『「サディストの告白』と、その部台裏』。新宿アートヴィレッジでの公演の様子。
SMカメラ・ハント
- 京都のストリップ劇場での公演『生の確認』を観劇。青木順子の作・演出。
- 記憶喪失で白血病で死期の迫った女性(青木順子)を誘拐した青年(向井一也)が記憶を取り戻させようと髪の毛を掴み引き回し、後手に縛り、股縛り、猿ぐつわ縛りをかけ、さらに逆海老に吊り上げローソク責めをしながら、ベルトで鞭打つ。青年は絶命し、女性は記憶を戻し、死んだ青年がかつての恋人であったことを思い出す。20分ほどの劇。
- 楽屋を訪れ、次の公演先である奈良のS劇場に移動するので、3日後に春日の奥山を一緒にドライブすることになる。
- 『生の確認』の前に『画家とモデル』を作っており、インタビュー時点でこの2作のみ。夢はストリップとの抱き合わせではなく、普通の劇場での公演。世界の青木順子になること。
- 青木順子は関東のS女子大卒のインテリ。
- 奈良のS劇場での公演後、再度会う。若草山の料理旅館に移動。
- 大阪のD劇場で『ミス・キーラの情事』の劇中劇を頼まれ、急遽、東京より駆けつけた話。
- 第1作の『画家とモデル』は数人のスタッフでやる筈だったが、最後は向井一也と二人。
- 向井一也と組む前に、東京ではコメディアンと組んでいた。
- 試しに辻村隆が旅館で縛ることになった。写真撮影を申し込んだが「舞台とか、楽屋でならいいけど、こんなお遊びの部屋ではいやです」と拒否される。
- 次の日、ストリップ劇場の楽屋裏の空き地で縛り、撮影。
- 第3作『防空壕の女(仮題)』を執筆中。辻村隆は『青木順子後援会』の会員を募集開始。
エピソード
代表作
- 『サド・マゾ劇を12年間も演じ私生活もSMのインテリ夫婦』 in 週刊大衆1974年(昭和49年)11月28日号。