「解語の花」の版間の差分
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'''かいごのはな'''。[[星野小麿]]の撮影会の分科会で[[濡木痴夢男]]が講師をつとめ1976年から79年まで20回開催された。[[枷井克哉]]、[[不二秋夫]]等が会員。[[緊美研]]の母体ともいえる。 | |||
==概要== | ==概要== | ||
写真家[[星野小麿]]が1970年代から主催するアマチュアカメラマンのための撮影会『[[KPC]]』の分科会の1つ<ref name="nurekiwork">[[濡木痴夢男仕事メモ]]</ref><ref group="注">[[濡木痴夢男]]は『[[解語の花]]』=「緊縛撮影会」と説明しているが、「[[解語の花]]写真家倶楽部」と副題のついた『写真集 写GIRL』が少なくとも1992年まで定期的に出版されているので、認識違いが、あるいは、1979年(昭和54年)に1度終了した『[[解語の花]]』がある時期に復活したのかもしれない。</ref>。1976年(昭和51年)にの第1回目から[[濡木痴夢男]]が講師として招かれ、その後、1979年(昭和54年)の第20回目まで、4年間に亘り、[[濡木痴夢男]]が講師を担当した。[[解語の花]]の会員には、[[枷井克哉]]、[[須賀忠]]、[[不二秋夫]]らがおり、後の「[[ゆたか編集室]]」や「[[緊美研]]」発足のきっかけとなる<ref name="nurekiwork"></ref>。 | 写真家[[星野小麿]]が1970年代から主催するアマチュアカメラマンのための撮影会『[[KPC]]』の分科会の1つ<ref name="nurekiwork">[[濡木痴夢男仕事メモ]]</ref><ref group="注">[[濡木痴夢男]]は『[[解語の花]]』=「緊縛撮影会」と説明しているが、「[[解語の花]]写真家倶楽部」と副題のついた『写真集 写GIRL』が少なくとも1992年まで定期的に出版されているので、認識違いが、あるいは、1979年(昭和54年)に1度終了した『[[解語の花]]』がある時期に復活したのかもしれない。</ref>。1976年(昭和51年)にの第1回目から[[濡木痴夢男]]が講師として招かれ、その後、1979年(昭和54年)の第20回目まで、4年間に亘り、[[濡木痴夢男]]が講師を担当した。[[解語の花]]の会員には、[[枷井克哉]]、[[須賀忠]]、[[不二秋夫]]らがおり、後の「[[ゆたか編集室]]」や「[[緊美研]]」発足のきっかけとなる<ref name="nurekiwork"></ref>。 | ||
==歴史== | ==歴史== | ||
1976年(昭和51年)11月14日、[[星野小麿]]主宰[[KPC]]の分科会の1つとして第1回『[[解語の花]]』が[[百花苑]]で開かれる。講師は[[濡木痴夢男]]。モデルは[[深美ジュン]]<ref name="nurekiwork"></ref>。 | 1976年(昭和51年)11月14日、[[星野小麿]]主宰[[KPC]]の分科会の1つとして第1回『[[解語の花]]』が[[百花苑]]で開かれる。講師は[[濡木痴夢男]]。モデルは[[深美ジュン]]<ref name="nurekiwork"></ref><ref group="注">第1回の撮影会は50名近くの参加者を集める盛況ぶりで、近くの駅から[[百花苑]]まで観光バス2台で会員を運び、撮影会も急遽2回に分けておこなった。</ref>。 | ||
1976年(昭和51年)12月4日、第2回撮影会。東銀座の東劇ビルにあった'''東劇スタジオ'''<ref group="注">映画のポスター撮影などに使われていたスタジオ。</ref>にて。モデルは[[花房利香]]。 | |||
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==トピック== | ==トピック== | ||
* 『解語(かいご)の花』とは 「言葉を解する花」という意味で、 美人のことを意味する中国古語から由来した表現。「唐の玄宗皇帝が楊貴妃と太液の池に咲く蓮の花を鑑賞していたとき、玄宗が家来に、「蓮の花より解語の花の方が美しい」と言ったことから出た語。」 | * 『解語(かいご)の花』とは 「言葉を解する花」という意味で、 美人のことを意味する中国古語から由来した表現。「唐の玄宗皇帝が楊貴妃と太液の池に咲く蓮の花を鑑賞していたとき、玄宗が家来に、「蓮の花より解語の花の方が美しい」と言ったことから出た語。」 | ||
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かいごのはな。星野小麿の撮影会の分科会で濡木痴夢男が講師をつとめ1976年から79年まで20回開催された。枷井克哉、不二秋夫等が会員。緊美研の母体ともいえる。
概要
写真家星野小麿が1970年代から主催するアマチュアカメラマンのための撮影会『KPC』の分科会の1つ[1][注 1]。1976年(昭和51年)にの第1回目から濡木痴夢男が講師として招かれ、その後、1979年(昭和54年)の第20回目まで、4年間に亘り、濡木痴夢男が講師を担当した。解語の花の会員には、枷井克哉、須賀忠、不二秋夫らがおり、後の「ゆたか編集室」や「緊美研」発足のきっかけとなる[1]。
歴史
1976年(昭和51年)11月14日、星野小麿主宰KPCの分科会の1つとして第1回『解語の花』が百花苑で開かれる。講師は濡木痴夢男。モデルは深美ジュン[1][注 2]。
1976年(昭和51年)12月4日、第2回撮影会。東銀座の東劇ビルにあった東劇スタジオ[注 3]にて。モデルは花房利香。
1976年(昭和51年)12月26日、第3回撮影会。秋葉原の近くの凸版印刷がもっていたスタジオで[注 4]。モデルは花房利香と秋川みずえ。
1977年(昭和52年)、須賀忠と不二秋夫が会員となり参加してくる。
1977年(昭和52年)4月2日、第6回撮影会。東劇スタジオにて。モデルは森れい子。濡木痴夢男はこの時に初めて枷井克哉の存在をはっきりと意識する[1]。
1979年(昭和54年)5月13日、赤坂レンガネットで撮影会。モデル:甲斐千春、ミレーヌみゆき[2]
1979年(昭和54年)、第20回『解語の花』で終了[1]。
トピック
- 『解語(かいご)の花』とは 「言葉を解する花」という意味で、 美人のことを意味する中国古語から由来した表現。「唐の玄宗皇帝が楊貴妃と太液の池に咲く蓮の花を鑑賞していたとき、玄宗が家来に、「蓮の花より解語の花の方が美しい」と言ったことから出た語。」