須磨利之

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須磨利之 (1920-1992 )

すま としゆき、1920年(大正9年) - 1992年(平成4年)

活動内容

絵師。緊縛師。文筆家。編集者。『奇譚クラブ』『裏窓』『SMコレクター』『アブハンター』『SM奇譚』などの初期SM雑誌の編集に関わり、戦後SM文化の形成に大きな役割を果たした。絵師としても高いレベルの作品を残し、緊縛師、文筆家としても活躍した。

別名

Toshiyuki Suma, Reiko Kita, Kou Minomura, 須磨としゆき、 喜多玲子美濃村晃、その他(下記参照)。

奇譚クラブ時代の変名[1]

喜多玲子、壬生すみ子(文)、藤安節子(文)、竹中えいじろ(絵)、今幾久造(絵)、花山剣作(文)、鬼山絢作(けんさく, 文)、赤坂剛(文)、秋山ルミ子(文)、三村幾夫(文)、染田玄(文)、また絵のサインとしては『MINOMURA』『晃』『KEN』『弱』『えいじろ』

風俗草紙時代の変名

喜多玲子、美濃村晃(絵)、志見透(文)、高月大三(文)

裏窓時代の変名

喜多玲子美濃村晃、沢拳史(絵)、柴志野別(絵)

SM雑誌時代の変名

喜多玲子美濃村晃、絵のサインとしては『玲』

(未整理)

竹中英二郎[注 1]、須賀敏(小説)、古賀純一(小説)、石塚章二(小説)、村松武史(劇画)、本田玲造、多摩九介、円城寺達、早乙女晃(小説家)、明石三平、照魔加司

略歴

須磨の自伝には創作部分がかなり含まれていると思われるので、以下の略歴も要注意情報を含むことに留意されたい。

1920年(大正9年) 、京都の印刷業の家に生まれる[2][注 2]

1932年頃、祖父の蔵書の中にあった『変態風俗資料』という本に責め絵画家として紹介されている伊藤晴雨を知る[2][3]

1930年代、京都美術工芸学校を結核で中退[3]

1930年代、小林楳仙(こばやしばいせん)[注 3]という日本画家の内弟子になる[3][4][2]

1939年(昭和14年)5月、舞鶴の海兵団に志願[4]

1944年(昭和19年)3月18日、「北陸丸」乗船中にバシー海峡で沈没[4][注 4]

1945年頃、復員後、日本各地を放浪していろいろな職業につく[3]

1945年頃、京都の夕刊新聞社「京都中央新聞社」の編集記者[3]

1947年(昭和22年)夏、京都中央新聞社の杉山清詩[注 5]につれられ曙書房に行ったのが縁で奇譚クラブに挿絵を描き出す[3][注 6]。まだ不定期刊行のカストリ雑誌であった奇譚クラブ以外にも、「情艶新集」などににも挿絵を描いていた[注 7][3]

1950年(昭和25年)、奇譚クラブに喜多玲子の名前で挿絵が出始める(要確認)

1951年(昭和26年)、この年に須磨利之奇譚クラブに本格的に参加したとする文献が多いが注意が必要。

1951年(昭和26年)、4月より1954年(昭和29年)1月まで伊藤晴雨と喜多玲子の書簡交換が記録に残っている[5]

1952年(昭和27年)、奇譚クラブは6月号からそれまでのB5版をA5版に変え、変態路線を強めていく。

1953年(昭和28年)、奇譚クラブを辞め、同人誌『たのしみ草紙』を発行[注 8][3]

1953年(昭和28年)12月、風俗草紙12月号に喜多玲子の絵。

1954年(昭和29年)秋、上京[注 9][3][注 10]

1954年(昭和29年)、伊藤晴雨と始めて実際に会う[注 11][2][3]

1955年(昭和30年)、風俗草紙の廃刊と共に、あまとりあ社(=久保書店)に入社。あまとりあの終刊号(8月号)の編集に携わる。

1955年(昭和30年)、裏窓の前身となる『カッパ』を創刊[注 12][3]

1956年(昭和31年)、久保書店から裏窓創刊引用エラー: 無効な <ref> タグです。名前 (name 属性) がない場合は注釈の中身が必要です[1]

1959年(昭和34年)、この頃、団鬼六と交友関係が深まる(要確認)

1960年(昭和35年)、裏窓は角綴から中綴に変わり、変態雑誌を大きく標榜。

1961年(昭和36年)8月、浦戸宏裏窓編集室に参加。

1962年(昭和37年)、裏窓の編集長を濡木痴夢男にバトンタッチし、少女雑誌『叙情文芸』『灯』の編集をてがける[3]

1970年(昭和45年)、久保書店を退社し、濡木痴夢男虻プロを設立。社長は須磨。あぶめんとを創刊。同年9月号で廃刊。

1970年(昭和45年)11月、SMセレクトの創刊に関与。

1971年(昭和46年)10月、SMコレクターの創刊に関与。

1972年(昭和47年)、脳溢血で倒れる。

1992年(平成4年)、死去。

エピソード

  • ミノムラコ=ジャワ語でちょっと一服[1]
  • 喜多玲子は夫人の旧姓そのまま使った。吉田稔の勧め[2]
  • 江戸川乱歩から少年の絵を依頼されていたらしい[6]
  • 寺山修司は須磨と交流があり、戦争の逸話[注 13]などをテープに録音していた[6]
  • ボクシング好きの須磨利之は、「カッパの清作がやっている店へご案内しますよ」と濡木をたこ八郎がやっていた「たこ部屋」に連れて行った[7]
  • 須磨は高橋鐵に良く思われていないと述べている。これは沼正三奇譚クラブ1954年(昭和29年)4月号に発表した『高橋鐵批判』が原因と考えていた[2]

代表作

特に注目すべき作品

自伝

  • 『春縄(シリーズ)[注 14]SMコレクター1975年(昭和50年)5月号-1977年(昭和52年)5月号
  • 『縄の浮浪者』SMコレクター1978年(昭和53年)10月号-1979年(昭和54年)7月号
  • 『我が縄の履歴書』SMコレクター1981年(昭和56年)6月号-12月号
  • 『美濃村晃淫行録』
  • 『太平洋戦争SM譚』
  • 『縛られ女郎列伝』(再録[注 15])S&Mスナイパー1993年(平成5年)5月号-1995年(平成7年)1月号
  • 『縄の交友録』緊美研通信1990年(平成2年)第4号, 第5号, 1991年(平成3年)第6号

特集

参考資料

注釈

  1. 竹中英太郎をまねた画風。竹中英太郎の息子は評論家の竹中労で後年、須磨を訪れた(「奇譚クラブの絵師たち」)
  2. 実父亡き後、叔父の須磨勘兵衛が家長。古書を探すと確かに「須磨勘兵衛発行」の本が見つかる。京都市左京区下鴨泉川町6となっている。
  3. 右京区の嵯峨荘馬場町天龍寺という所にいた。
  4. フィクションかもしれないが、仮装巡洋艦「北陸丸」は実在した。「昭和16年8月に海軍に徴傭された北陸丸は,昭和17年のメナド攻略,ミッドウエー作戦,ガダルカナル作戦と激戦の海を駆け巡る。昭和19年、6700トンのボーキサイト,600トンの重油,256名の軍人を載せてシンガポールから門司に向かった北陸丸は、3月18日1時14分、シナ海香港南東300km付近において被雷する。1本目が1番艙で爆発すると2番艙の弾薬が誘爆,2本目は3番艙の重油タンクで爆発炎上,3本目は機関室に命中して5分後に全没。8名の軍人、警戒隊25名、55名の船員が戦死」とある。
  5. 杉山清詩は奇譚クラブ別冊に須磨氏を連れてデパートに洋画美術研究会に行ったことを書いている。当時は、美術を隠れ蓑にヌード鑑賞していたらしい。(秋田昌美「異説:フェティシズムの歴史」)
  6. 奇譚クラブの創刊は1946年(昭和21年)説と、1947年(昭和22年)10月説があり、後者が正しいとすると、この夏での訪問は話が合わない。
  7. 「情艶新集」の出版社には後の都築峰子となる八木静男が寄宿していた。
  8. 20人程のマニアが集まり、20-50部ほどを発行。8号まで続く。
  9. 伊藤晴雨、三木トリローらが上京を勧めたとされる。
  10. 「奇譚クラブの絵師たち」では「1953年(昭和28年)に・・妻子と共に上京する。新宿・十二社(そう)のアパートの二階に住む」とある。
  11. 当初、伊藤晴雨は喜多玲子を本物の女性画家だと信じていた模様。また、最後まで須磨を喜多玲子の主人と思っていた「ふり」をしていたという説もある。
  12. カッパブックスを出していた光文社からのクレームで改名。
  13. 「戦争で捕虜となった時に、敵国の従軍看護婦一師団がやってきて、捕虜の日本兵に『射精競馬』をさせ、最後はその<ウタマロ>を強チンされた」。ただしこの手の須磨の話は要注意。
  14. 「春縄あぶぷれい」「春縄お好み場面」など、毎回異なるタイトル。
  15. オリジナルは白夜書房の『スパーク』

つながり

伊藤晴雨 吉田稔 濡木痴夢男 団鬼六 櫻木徹郎 江戸川乱歩 寺山修司 八木静男

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