「百万弗劇場」の版間の差分

提供:SMpedia
11行目: 11行目:


1951年(昭和26年)6月、渥美清が専属コメディアンになる<ref group="注">渥美はその前は横浜セントラルにいた。</ref>。
1951年(昭和26年)6月、渥美清が専属コメディアンになる<ref group="注">渥美はその前は横浜セントラルにいた。</ref>。
1951年(昭和26年)暮、[[百万弗劇場]]が[[伊藤晴雨]]の作・演出による『'''雪地獄生娘'''』『'''火責め水責めの生娘'''』で大ヒット<ref name="romance">奈佳伸夫『'''近頃艶笑見世物談議'''』[[ロマンス生活]]1952年(昭和27年)4月号, [http://nawa-art.com/etc/romance/another195204/01/023.html p28]</ref>。


1952年(昭和27)年、倒産<ref group="注">渥美清は川崎セントラルに一時移るが、1953年(昭和28)年には、浅草に戻り[[浅草フランス座]]に入る。</ref>。その後美人クラブになったとある<ref name="honda"></ref>。
1952年(昭和27)年、倒産<ref group="注">渥美清は川崎セントラルに一時移るが、1953年(昭和28)年には、浅草に戻り[[浅草フランス座]]に入る。</ref>。その後美人クラブになったとある<ref name="honda"></ref>。

2011年8月6日 (土) 17:41時点における版

概要

1950年代初めに浅草の国際劇場のはす向かいにあったストリップ劇場。伊藤晴雨が責めの芝居をやっていた[1]。渥美清もいた。

別名

所在地

東京都台東区浅草

歴史

1950年前後、大正時代から1930年(昭和5年)頃まで存在した観音劇場の跡地に、ストリップ劇場として開設。

1951年(昭和26年)6月、渥美清が専属コメディアンになる[注 1]

1951年(昭和26年)暮、百万弗劇場伊藤晴雨の作・演出による『雪地獄生娘』『火責め水責めの生娘』で大ヒット[2]

1952年(昭和27)年、倒産[注 2]。その後美人クラブになったとある[1]

エピソード

引用文献

  1. 1.0 1.1 本田由郎「責め」の芝居雑考奇譚クラブ1956年(昭和31年)7月号, p68
  2. 奈佳伸夫『近頃艶笑見世物談議ロマンス生活1952年(昭和27年)4月号, p28

注釈

  1. 渥美はその前は横浜セントラルにいた。
  2. 渥美清は川崎セントラルに一時移るが、1953年(昭和28)年には、浅草に戻り浅草フランス座に入る。

お役たちweb

つながり