「テンプレート:1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?」の版間の差分

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*[[団鬼六]]の[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号『[[鬼六談義]]では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。
*[[団鬼六]]の[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号『[[鬼六談義]]では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。
*[[小林悟]]自身が「'''私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。'''鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref>[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号</ref>と述懐している。
*[[小林悟]]自身が「'''私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。'''鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref>[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号</ref>と述懐している。
*[[小林悟]]は[[月森功]]の変名で1965年(昭和40年)頃から[[東京企画]]の作品をいくつか監督している。
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)2月号の[[鬼六談義]]には「『[[花と蛇]]』が[[国映]]から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「[[新東宝]]健在なりし頃のベテラン監督。古くからの[[奇譚クラブ]]の読者。」とある。K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)2月号の[[鬼六談義]]には「『[[花と蛇]]』が[[国映]]から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「[[新東宝]]健在なりし頃のベテラン監督。古くからの[[奇譚クラブ]]の読者。」とある。K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。
*[[たこ八郎]]は「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている<ref name="tako">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4900402036?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4900402036 たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)]</ref>。
*[[たこ八郎]]は「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている<ref name="tako">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4900402036?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4900402036 たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)]</ref>。
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[ヤマベプロ]]の解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・[[小林悟]])」と書いている<ref name="Nikaido2014">[[二階堂卓也]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120292/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4779120292&linkCode=as2&tag=iq05-22 ピンク映画史: 欲望のむきだし]'''』([[彩流社]], 2014)</ref>。
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[ヤマベプロ]]の解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・[[小林悟]])」と書いている<ref name="Nikaido2014">[[二階堂卓也]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120292/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4779120292&linkCode=as2&tag=iq05-22 ピンク映画史: 欲望のむきだし]'''』([[彩流社]], 2014)</ref>。

2023年9月22日 (金) 12:19時点における最新版

情宣チラシには「監督:岸信太郎(=山邊信雄)」と明記されており、映画データベースなども(おそらく公開時のチラシやポスターが情報源と思われる)岸信太郎の監督作品とされている。一方で、山邊信雄本人は小林悟が監督であったと述べており、複数の周辺情報は小林悟が監督であったことを支持しており、真相は謎である。

  • 山邊信雄氏へのインタビュー[1]では監督が小林悟で、助監督が若松孝二であったと明確に断言している。この点、チラシなどの一般情報と異なっている。
  • 団鬼六奇譚クラブ1965年(昭和40年)8月号『鬼六談義では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=岸信太郎=山邊信雄では話が合わない。
  • 小林悟自身が「私が始めてSM映画をてがけたのは、この『花と蛇』であった。鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」[2]と述懐している。
  • 小林悟月森功の変名で1965年(昭和40年)頃から東京企画の作品をいくつか監督している。
  • 奇譚クラブ1965年(昭和40年)2月号の鬼六談義には「『花と蛇』が国映から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「新東宝健在なりし頃のベテラン監督。古くからの奇譚クラブの読者。」とある。K氏=岸信太郎=山邊信雄では話が合わない。
  • たこ八郎は「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている[3]
  • 二階堂卓也は自身の書籍中のヤマベプロの解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・小林悟)」と書いている[4]
  1. by U (2010.5.2)
  2. 小林悟日本映画の中のSMロマン』in SMプレイ1973年(昭和48年)2月号
  3. たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)
  4. 二階堂卓也ピンク映画史: 欲望のむきだし』(彩流社, 2014)