テンプレート:SMカメラ・ハント
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概要
奇譚クラブ1964年(昭和39年)11月号から1973年(昭和48年)3月号までの8年5月(うち、2号が休載)にわたり連載した辻村隆の名物記事。合計1394枚の写真が発表された[1]。
別名
代表的な記事
第1回 青木順子
- 京都のストリップ劇場での公演『生の確認』を観劇。青木順子の作・演出。
- 記憶喪失で白血病で死期の迫った女性(青木順子)を誘拐した青年(向井一也)が記憶を取り戻させようと髪の毛を掴み引き回し、後手に縛り、股縛り、猿ぐつわ縛りをかけ、さらに逆海老に吊り上げローソク責めをしながら、ベルトで鞭打つ。青年は絶命し、女性は記憶を戻し、死んだ青年がかつての恋人であったことを思い出す。20分ほどの劇。
- 楽屋を訪れ、次の公演先である奈良のS劇場に移動するので、3日後に春日の奥山を一緒にドライブすることになる。
- 『生の確認』の前に『画家とモデル』を作っており、インタビュー時点でこの2作のみ。夢はストリップとの抱き合わせではなく、普通の劇場での公演。世界の青木順子になること。
- 青木順子は関東のS女子大卒のインテリ。
- 奈良のS劇場での公演後、再度会う。若草山の料理旅館に移動。
- 大阪のD劇場で『ミス・キーラの情事』の劇中劇を頼まれ、急遽、東京より駆けつけた話。
- 第1作の『画家とモデル』は数人のスタッフでやる筈だったが、最後は向井一也と二人。
- 向井一也と組む前に、東京ではコメディアンと組んでいた。
- 試しに辻村隆が旅館で縛ることになった。写真撮影を申し込んだが「舞台とか、楽屋でならいいけど、こんなお遊びの部屋ではいやです」と拒否される。
- 次の日、ストリップ劇場の楽屋裏の空き地で縛り、撮影。
- 第3作『防空壕の女(仮題)』を執筆中。辻村隆は『青木順子後援会』の会員を募集開始。
第2回 山原清子
- 奇譚クラブのモデル募集を見て応募してきた愛知県の22歳の芸妓。最初の旦那が奇譚クラブ愛読者。15歳から3年がかりで刺青を。
- 旦那が急死。「背中一面に玉取姫の刺青をしているので銭湯にいけず」「バス付きのアパートを借りる費用を捻出する必要」
- 辻村隆は1964年(昭和39年)9月14日に名古屋で初めて山原清子と会う。ホテルで撮影。
- 第1〜3番目の旦那に既に縛られていたので緊縛は慣れている。
関谷富佐子
整理中
- 1965年(昭和40年)2月号, p100、竹野ひろ子
- 1966年(昭和41年)3月号、梨花悠紀子
- 1966年(昭和41年)4月号、p98、小原真澄
- 1966年(昭和41年)10月号, p152『続・小原真澄の巻 岩壁の裸女』
- 1967年(昭和42年)8月号、秋山夫妻
- 1968年(昭和43年)4月号、辰巳典子
- 1968年(昭和43年)5月号、谷ナオミ
- 1968年(昭和43年)6月号、佐々木真弓
- 1968年(昭和43年)11月号, p46、佐々木真弓
- 1968年(昭和43年)12月号、「徳川女刑罰史」
- 1969年(昭和44年)2月号、「元禄女系図」
- 1969年(昭和44年)3月号、渚マリ
- 1969年(昭和44年)7月号、「徳川いれずみ師・責め地獄」
- 1969年(昭和44年)12月号、「SMカメラハント回顧 追憶の甘き花びらの群れ」, p213
- 1970年(昭和45年)5月号、続・秋山夫妻
- 1970年(昭和45年)7月号, p20、佐々木真弓
- 1970年(昭和45年)9月号、谷山久美子
- 1970年(昭和45年)10月号、渡部好美
- 1972年(昭和47年)2月号、『知りたい年頃 大沢妙子の巻』, p180
- 1973年(昭和48年)2月号、秋山夫妻