「世田介一」の版間の差分
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2010年10月13日 (水) 08:21時点における版
せだ かいいち、1933年(昭和8年)-??
活動内容
編集人。絵師。文筆家。緊縛師。1960年代後半から奇譚クラブに中宮栄の名で投稿を始めたマニアで、奇譚クラブ終刊後も他のSM雑誌に投稿すると同時に、自ら1977年(昭和52年)にマニア向けの少部数雑誌SUN&MOON を創刊した。その後も、数多くの雑誌の発行を続けたが、一貫してコアなマニアのみを対象とした同人誌的な雑誌を目指しており、奇譚クラブのある側面を後世につなげた人物とも言える。荒川也寸志の名で絵師としても活躍していた。
別名
Kai-ichi Seda、荒川也寸志、中宮栄、、中宮さかえ、佐伯、豊島園近、多貫欣、左祺兆[1]、笹田介一[注 1]
略歴
1967年(昭和42年)、中宮栄の名で奇譚クラブに投稿を始める。
1977年(昭和52年)、この頃より世田介一を名のる。
1977年(昭和52年)3月1日、SUN&MOON(日月舎)を創刊[注 2]。
1978年(昭和53年)2月25日、サンアンドムーンと誌名を変更し絃映社から出版。編集人は浦戸宏。まもなく意見の対立[注 3]から世田介一が離脱[注 4]。
1978年(昭和53年)、スペシャリーS&M(日月舎)創刊。意見の対立から7号を最後に世田介一が離脱[注 5]。。
1980年(昭和55年)、ともえ・えがら(エド・プロダクツ)創刊。
1980年(昭和55年)、にちげつクラブ(エド・プロダクツ)創刊。
1983年(昭和58年)2月15日、『SMミラージュ』(群雄新社)創刊。
1989年(昭和64年)1月15日、『異喜域特号 光輪 HALO』(日月新社)の創刊。
1995年(平成7年)11月、ロン・ポアン(笠倉出版)の創刊に関与。
エピソード
- 世田介一を縦書きにすると「世界一」となる。
代表作
緊縛教材(印刷物)
書籍
- 世田介一『憑かれた人々』(日月新社, 1986)
- 世田介一『憂悶者の告白』(日月新社, 1987)
- 世田介一『気癒力―自然医学は、がん・糖尿病などの難病も治すことができる! 』(騎虎書房, 1997)
ビデオ
- 「SM凌辱」
- 「肛虐羞恥の惑乱」
雑誌
- 中宮栄『夜の徒然草』奇譚クラブ1967年(昭和42年)1月号, p186
- 中宮栄『夜の徒然草』奇譚クラブ1967年(昭和42年)4月号
- 中宮栄『夜の徒然草』奇譚クラブ1967年(昭和42年)5月号
- 中宮栄『ムードフォトの試み』奇譚クラブ1967年(昭和42年)7月号
- 中宮栄『夜の徒然草』奇譚クラブ1967年(昭和42年)8月号, p60
- 中宮栄『夜の徒然草』奇譚クラブ1967年(昭和42年)11月号,p238
- 中宮栄『佐野さんへの公開書簡 嘉悦と至幸』奇譚クラブ1971年(昭和46年)12月号
- 多貫欣『仕置き器あらかると』SMセレクト1975年(昭和50年)1月号
- 多貫欣『責め具考案』SMセレクト1975年(昭和50年)4月号
- 多貫欣『責め具考案3』SMセレクト1975年(昭和50年)5月号
- 多貫欣『刑具的利用法』SMセレクト1975年(昭和50年)7月号
- 多貫欣『捕網枠』SMセレクト1975年(昭和50年)8月号
- 多貫欣『SM訓操台』SMセレクト1975年(昭和50年)11月号
- 多貫欣『素歓秤』SMセレクト1976年(昭和51年)4月号
- 多貫欣『悦枕具』SMセレクト1976年(昭和51年)3月号
- 多貫欣『作家の呟き』SMセレクト1976年(昭和51年)8月号
- 多貫欣『タヌキンのアイデアシリーズ』SMセレクト1976年(昭和51年)11月号
- 多貫欣『たんてい』SMセレクト1976年(昭和51年)12月号
- 荒川也寸志『荒川也寸志の世界』SMマガジン1977年(昭和52年)2月号
- 荒川也寸志『荒川也寸志の世界』SMマガジン1977年(昭和52年)3月号
- 荒川也寸志『荒川也寸志の世界』SMマガジン1977年(昭和52年)6月号
- 荒川也寸志『荒川也寸志の世界』SMマガジン1977年(昭和52年)12月号
- 荒川也寸志『城館監理人室』SMマガジン1981年(昭和56年)4月号
- 荒川也寸志『昇降円板のある光景』SMマガジン1981年(昭和56年)5月号
- 荒川也寸志『城館監理人室』SMマガジン1981年(昭和56年)6月号
- 荒川也寸志『復讐鬼の正体』SMマガジン1981年(昭和56年)7月号
- 荒川也寸志『牛女被虐巡訪』SMマガジン1981年(昭和56年)8月号
- 荒川也寸志『特命社員』SMマガジン1981年(昭和56年)10月号
引用文献
注釈
- ↑ SUN&MMON創刊号『リレーカメラハント 縛絆記』は本文が「笹田介一」で目次が「世田介一」となっている。文体は世田介一のそれと似ている。
- ↑ 世田介一は他に、笹田介一、中宮さかえ、多貫欣の名前で登場。六本木薫も写真、文を寄稿。
- ↑ 1989年(昭和64年)1月15日発行の『異喜域特号 光輪 HALO』(日月新社)の編集後記にそのことが書かれている。それによると「編集長が何等断りもなく(表紙の)描写人物を白抜きし・・・それを黙認したH社長に対しても、いまだに本心怨恨をもち続けています。」とある。
- ↑ サンアンドムーンはその後も浦戸宏が発行を続け、やがてえすとえむにさらに誌名変更
- ↑ スペシャリーS&Mはその後も山谷秋人が発行所を大共社に変え出版を続ける。