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1961年(昭和36年)、[[新東宝]]が倒産後、[[大蔵映画]]に参加。
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2010年5月2日 (日) 22:08時点における版

こばやし さとる、1930年(昭和5年)8月1日-2001年(平成13年)11月15日

活動内容

別名

Satoru Kobayashi 、左次郎、松本千之

略歴

1930年(昭和5年)8月1日、長野県に生まれる[1]

1950年代、早稲田大学卒業[2]

1954年(昭和29年)、新東宝傍系の近江プロにはいる[注 1][2]。やがて新東宝に移る。

1959年(昭和34年)、『狂った欲望』(新東宝)で監督デビュー。

1961年(昭和36年)、新東宝が倒産後、大蔵映画に参加。

1962年(昭和37年)、最初のピンク映画とされる『肉体の市場』[注 2]

1969年代、アメリカと台湾に渡る。台湾では現地語による監督作品[1]

1972年(昭和47年)、松竹が東活を作った際に帰国してカムバック[2]

エピソード

代表作

引用文献

  1. 1.0 1.1 Wikipediaより。
  2. 2.0 2.1 2.2 鈴木義昭『ピンク映画水滸伝 その二〇年史』(1983, 青心社)

注釈

  1. 大蔵貢の実弟近江俊郎が起こした
  2. 助監督は小川欽也。

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つながり