「沖渉二」の版間の差分

提供:SMpedia
編集の要約なし
32行目: 32行目:
==エピソード==
==エピソード==
*[[須磨利之]]が[[沖渉二]]を[[団鬼六]]に紹介する。1972年(昭和47年)頃<ref name="gekiga"></ref>。
*[[須磨利之]]が[[沖渉二]]を[[団鬼六]]に紹介する。1972年(昭和47年)頃<ref name="gekiga"></ref>。
*[[館淳一]]「[[沖渉二]]さんの絵は女性の表情と、衣服とくに下着の描写が私好みで好きでした。」(2016.1.2, FaceBook)


==作品==
==作品==

2016年1月2日 (土) 11:25時点における版

沖渉二「白い肌の悪夢」in 「悪の性愛術」ザ・ギャンブラー1984年(昭和59年)1月増刊号
沖渉二「緋櫻地獄」SMキング1973年(昭和48年)1月号
沖渉二「屈辱の指定席」S&Mアブハンター1974年(昭和49年)6月号
佳奈淳「聖艶二重奏」挿絵・沖渉二SMマニア1999年(平成11年)11月号

おき しょうじ、1922年(大正11年)4月16日-。大正生まれの絵師・劇画家。東京芸大で油絵専攻。「千一夜」から始まり「風俗奇譚」「裏窓」など数多くのSM雑誌に挿絵・劇画。団鬼六とのコンビ作も多い。

概要

絵師。劇画家。裏窓風俗奇譚を皮切りに、鬼プロサン出版三和出版司書房ミリオン出版が発行したSMクラブSM秘小説などに作品を発表。

別名

沖渉司、桜井五郎、帯刀惇、美影栄

略歴

1922年(大正11年)4月16日、兵庫県住吉生まれ、大阪育ち。

1940年頃、市岡高校入学[1]

1945年(昭和20年)頃、復員後は進駐軍デザイン部に在籍[2]

東京美術学校(現、東京芸術大学)で油絵[3]

1947年(昭和22年)頃、洋画の看板絵描きを始める[2]

1953年(昭和28年)春頃、『千一夜[注 1]の表紙・挿絵を描き始める[3][2]

1954年(昭和29年)、『楽園』(『千一夜』の改題)8月号、9月号の表紙「Okishio」のサインは沖渉二の可能性[2]

1955年(昭和30年)頃、『楽園』を機に、(恐らく)有吉玄蔵[注 2]と上京。[3][2]

1958年(昭和38年)、有吉玄蔵の紹介で裏窓の沢敏康『人魚と短剣』の挿絵[2]

1980年代後半から別画名で活躍[3]

2012年(平成24年)2月27日〜3月10日、ヴァニラ画廊にて【沖渉二生誕90周年記念】沖渉二原画展「幻想の 躁宴(オルギア)」

エピソード

作品

引用文献

  1. 美濃村晃縄の交友録第2回 「奇譚クラブ」の初期の人々』 緊美研通信第5号 1990年(平成2年)8月1日
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 黒田氏情報@風俗文献談話室
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 『団鬼六原作劇画集成 (第1弾)』(マガジン・ファイブ, 2004)

注釈

  1. 当時の編集人は有吉玄蔵。
  2. 有吉玄蔵は日本文華社に勤める。

お役たちweb

つながり

須磨利之 団鬼六