「野沢堤雨」の版間の差分

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[[画像:nozawa2.jpg|300px|thumbnail|[[野沢堤雨]]『秘戯図巻』]]
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[[画像:nozawa.jpg|150px|thumbnail|[[野沢堤雨]]『見たて源氏絵』(1911)静岡県立美術館収蔵]]
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'''のざわ ていう'''、1837年(天保8年)-1917年(大正6年)。[[琳派]]の日本画家で、酒井抱一の孫弟子にあたる。[[伊藤晴雨]]が幼少の頃に師事した。<ref name="mukoujima">向島に住み、その奇行から向島の三奇人といわれていた[[伊藤櫟堂]]『'''向島にいた人々'''』(文藝春秋, 1934.4, 5)</ref>。
'''のざわ ていう'''、1837年(天保8年)-1917年(大正6年)。[[琳派]]の絵師。[[酒井抱一]]の孫弟子。[[伊藤晴雨]]が幼少の頃(明治22年)、3年間師事。「晴雨」の「雨」は「堤雨」から、「晴」は彫金師の[[内藤静宗]]から由来。
==概要==
==概要==
[[琳派]]の日本画家。酒井抱一の弟子である池田孤邨の弟子。[[伊藤晴雨]]が7才の頃、[[野沢堤雨]]に師事した<ref name="omoide">[[伊藤晴雨]]『'''僕の思い出噺'''』[[人間探求]]1952年(昭和27年)21号〜26号</ref>。
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2015年12月31日 (木) 14:13時点における版

野沢堤雨『秘戯図巻』
野沢堤雨『見たて源氏絵』(1911)静岡県立美術館収蔵

のざわ ていう、1837年(天保8年)-1917年(大正6年)。琳派の絵師。酒井抱一の孫弟子。伊藤晴雨が幼少の頃(明治22年)、3年間師事。「晴雨」の「雨」は「堤雨」から、「晴」は彫金師の内藤静宗から由来。

概要

琳派の日本画家。酒井抱一の弟子である池田孤邨の弟子。伊藤晴雨が7才の頃、野沢堤雨に師事した[1]

別名

english

略歴

1837年(天保8年)、誕生。

1879年(明治22年)頃、伊藤晴雨が絵を習い始める[注 1][1]

1906年(明治39年)、村越向栄、酒井道一、稲垣其達、野沢堤雨が四皓会を結成。

1917年(大正6年)、永眠。

エピソード

代表作

1858年(安政5)の会沢正志[注 2]の書に布袋の絵を描いている[4]

引用文献

  1. 1.0 1.1 伊藤晴雨僕の思い出噺人間探求1952年(昭和27年)21号〜26号
  2. 伊藤櫟堂向島にいた人々』(文藝春秋, 1934.4, 5)
  3. 3.0 3.1 「雨と名のつく人々」アサヒグラフ1956年(昭和31年)6月17日号。
  4. Yahooオークションに出品されていた。2013.5.19

注釈

  1. 彫刻師には絵が必要という父親の考えで。小学校の帰りに習いに行った。
  2. 水戸学の学者。常陸水戸藩士 藤田幽谷門 郡奉行、彰考館総裁等を歴任。徳川斉昭から取り立てられ藩政改革を補佐、藩校弘道館の初代教授頭取を勤める。

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