「花沢正治」の版間の差分
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[[新東宝]]映画のスチールカメラマンとしてスタート。[[新東宝]]が倒産するまでの14年間に120本以上の映画のスチールを撮影し、財を成す。目黒に花沢スタジオをもち、[[SMセレクト]]などの緊縛写真の撮影を多く撮影した。心筋梗塞で倒れた後は、チベット仏教に傾倒し、関連した写真作品を発表<ref name="kosakai">小堺昭三『カメラマンたちの昭和史(8)』(2008.3.25, グーテンベルク21)</ref>。 | [[新東宝]]映画のスチールカメラマンとしてスタート。[[新東宝]]が倒産するまでの14年間に120本以上の映画のスチールを撮影し、財を成す。目黒に花沢スタジオをもち、[[SMセレクト]]、[[SMコレクター]]などの緊縛写真の撮影を多く撮影した。心筋梗塞で倒れた後は、チベット仏教に傾倒し、関連した写真作品を発表<ref name="kosakai">小堺昭三『カメラマンたちの昭和史(8)』(2008.3.25, グーテンベルク21)</ref>。 | ||
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2012年2月11日 (土) 10:58時点における版
はなさわ しょうじ、1927年(昭和2年)3月3日-
概要
新東宝映画のスチールカメラマンとしてスタート。新東宝が倒産するまでの14年間に120本以上の映画のスチールを撮影し、財を成す。目黒に花沢スタジオをもち、SMセレクト、SMコレクターなどの緊縛写真の撮影を多く撮影した。心筋梗塞で倒れた後は、チベット仏教に傾倒し、関連した写真作品を発表[1]。
別名
略歴
1927年(昭和2年)3月3日、牧場経営主の四男として千葉県山武郡松尾町に生まれる[1]。
1939年(昭和14年)頃、小学6年生の時、県展に絵が入賞し、その褒美に父親からカメラを買ってもらう。
1944年(昭和19年)、疎開で両国から来た写真機材店経営者と印画紙やフィルムを野菜と交換する[1]。
1945年(昭和20年)、日本大学芸術家写真科に入学するが、すぐに学徒動員で福島県の八州光学に送られ、レンズ磨き。終戦で日大に戻る[1]。
1948年(昭和23年)、新東宝の秦大三[注 1]と出会い新東宝の社員となる[1]。
1949年(昭和24年)、『びっくり五人男』(新東宝、監督:斎藤寅次郎、出演:古川緑波、宮川玲子、横山エンタツ、花菱アチャコ、野上千鶴子)のスチールが初仕事[1]。
1950年(昭和25年)、契約スチールマンとして独立[1]。
1955年(昭和30年)、松竹歌劇団の出身で松竹ミュージカル所属の山村邦子と結婚。
1961年(昭和36年)、新東宝倒産。雑誌社からの撮影依頼が増え出す。日劇ミュージックホールの踊り子などの写真を撮影して雑誌社に販売する。
1973年(昭和48年)11月16日、濡木痴夢男がSMセレクトの撮影で花沢スタジオを初めて訪問している[2]。
1974年(昭和49年)2月、心筋梗塞で倒れる。
1976年(昭和51年)、二度目のメキシコ旅行。
1978年(昭和53年)、初の個展『メキシコ展』を新宿のミノルタフォトスペースで開催。
1980年(昭和55年)、中国のチベット入国許可後の初の日本からのチベット観光に参加。参加者には瀬戸内寂聴、酒井真典、松濤誠達らが。
1982年(昭和57年)2月、『秘境・チベット』を処女出版。
エピソード
- 新東宝時代、名照明係の藤林甲のライティング技術を学ぶ。10キロワット1つの照明を使うのではなく、1キロワット10個、のように、こまかく照明を当てて立体感を出す手法[1]。
- 独立後には有名女優の写真を雑誌表紙などに提供し、年収が200万円〜250万円と当時としては破格の高額所得者となる[1]。
- 「暗いリアリズム写真など撮りたくない」「ガード下の浮浪者を撮ったところで何があるんだ」[1]。
- 依頼されて指定のモデルの撮影をするのではなく、予めいろいろなモデルの写真を撮影しておき、その中から雑誌社が選んで購入するというエージェント式ビジネスモデルで成功[1]。
- 目黒に「花沢スタジオ」
- 須磨利之が病気で倒れるまでは、SMコレクターの緊縛写真を、吉田潤、花沢正治がカメラマン、須磨利之が緊縛師で撮影していた[2]。
代表作
- 『亡霊怪猫屋敷』(1958,)のスチール。
- 『明治天皇と日露戦争』のスチール。
- 花沢正治『秘境・チベット―花沢正治写真集』(1982.2, 日本写真企画)
- 花沢正治『忿怒と歓喜―秘境・ラダックー密教の原像 花沢正治写真集』(1983.3, 平凡社)
- 花沢正治『シャシン・マンダラ―秘境ブータン王国・シッキム・ダージリン密教の世界 花沢正治写真集』(1984.6, 平凡社)