「明智伝鬼」の版間の差分
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2010年6月30日 (水) 21:35時点における版
あけち でんき、1940年(昭和15年)9月11日 - 2005年(平成17年)7月17日
活動内容
緊縛師。
別名
略歴
1940年代、小学生低学年の頃、遊びで女友達を気に縛り興奮していた[1]。
1949年(昭和24年)頃、小学校三年の時、貸本屋で雑誌「奇譚クラブ」に出会う[1]。「デカメロン」や「裏窓」を愛読。
1950年代、中学時代は自転車で15分かけて貸本屋にSM関連雑誌を借りに行く[1]。
1950年代後半、高校時代に「肉体の門」写真集を見、自分で縛って練習。この頃、親の会社が倒産。職人の世界に入る。心臓病の手術[注 1]。
1957年(昭和32年)頃、初めて女性を緊縛[2][注 2]。
1958年(昭和33年)、職人として独立。
1970年(昭和45年)頃、再度心臓手術。
1978年(昭和53年)。GSG企画で桜田伝次郎、桜田信と出会う。西荻窪のビルの地下、大塚の「マイウエイ」(SMボンバー)でおこなわれていたGSG企画のショーの後、縛りのテクニックを披露。[3]。
1980年(昭和55年)頃、「特別会員の会」を組織[3]。
1987年(昭和62年)7月、スタジオファントムを組織[4]。中野クイーンで定期的にショーを[3]。
1987年(昭和62年)9月、「SM実験劇場スタジオファントム」を旗揚げ。最初月に1回、88.1より月2回の定例公演として97年6月までの10年間の長期公演[4]。
1989年(昭和64年)、一般会員撮影会を発足。不定期に野外撮影会。その後「SMの会(SF?確認必要)」「伝鬼の会」など四つの会を主宰[4]。
1997年(平成9年)8月、下馬(世田谷区で三軒茶屋や学芸大の近く)に雅羅紗を開く。
1998年(平成10年)、清水ひとみの「東京ストリップ」モッツコーポレーション
1998年(平成10年)、日本文化デザイン会議(秋田)、オランダツアー、
1999年(平成11年)、ヨーロッパツアーと国内外にて活躍
2001年(平成13年)、団鬼六の映画「美人妻」に出演している。笠原唯央監督。
2001年(平成13年)、 林葉直子の「罰」モッツコーポレーション
2001年(平成13年)11月、池袋にSM倶楽部 雅羅紗[注 3]をオープン。
2000年以降、持病の心臓の手術を毎年のように受けながらも精力的に活動。 捕縄術の研究。口伝で伝わっている。5年かかり27流派を解き明かす。
2003年(平成15年).6.21 Loft Oneに出ている。
2004年(平成16年).10.9撮影の葵マリ監督「鬼」に出ている。
2005年(平成17年)3月24日、「美女と野獣」で緊縛講習会予定の記事が同HPに。実際におこなったか不明。
2005年(平成17年)7月17日午前10時36分。多臓器不全により永眠。
エピソード
- 初めてGSG企画のショーを見た明智の感想は「アンダーグラウンド劇ってかんじだったけど、マニアの目から見ると、とてもSMとは言えなかった」[3]。
- GSG企画のショーは月に10回程度で2年続く。事故で終焉を迎える[3]。
- ビデオは初期のエド・プロ、ダイ・プロから、宇宙企画、VIPと二〇本以上のビデオ[3]。
- 「東京SM企画」「SM水族館」でもショーをしていた[4]。
- 亡くなる2週間前の2005年7月初頭の、長田スティーブによるインタヴューが残っている[2]。
- 辻村隆と交流があり、山本一章と一緒に練習したりパートナーを交換したりしたと述べている[2]。
代表作
緊縛教材
- 『縛りの極意』 クリーンバーニー・モッツ・コーポレーション(1997)
- 『緊縛技形宝典 第壱章』(縄友会, 2005)
- 『緊縛技形宝典 第弐章』(縄友会, 2005)